ショートショート【かたつむり】

 貝殻を耳にくっつけると波の音が聴こえるよ。

 パパは突然そんなことを言って、浜辺で拾った大きめの貝殻を僕によこしてくれたんだ。そんな不合理なことがあるもんかい、とこましゃくれたことを考えられるほど僕の脳みそはまだ発達していなくって、言われたとおり素直に耳に貝殻をくっつけてみたんだ。そうしたら、コーコーって、なんだかうるさいような落ち着くような、そんな音が本当に貝殻から流れてきたんだ。僕はそもそも本当の波の音がどういうものなのかをよく知らなかったから、このコーコーって鳴る音が本当に波の音といえるのかしらって考えたり、きれいずきが過ぎるところのあるママが、消毒もせずに拾ったものを肌につけるなんてことを知ったら、どれほど髪の毛を逆立ててわめきちらすだろうかと心配したりするのにいそがしくって、したり顔を浮かべるパパを満足させるような無邪気な反応ができなかったことをちょっぴり後悔している。

 波の音のことを思い出したのは小学4年生の一学期の終わりで、初めて夏休みの宿題に自由研究というものが出されたときだった。クラスメイトの浦部くんが、研究って何をすればいいんですかー?と先生に質問していて、先生は、何でもいいから気になる身近なものごとについて調べてみようって、全然子供心を理解していない返事をして、当の浦部くんはやっぱり不服そうな表情を浮かべていたけれど、僕はそれを聞いて、急にあの日貝殻の中から聴こえてきたコーコー、っていう音のことを思い出したんだ。

 だから、夏休みに入ると、自由研究がしたいから海に連れて行ってってパパにお願いしたんだ。パパは最初はけげんな顔つきをしていたけれど、貝殻の話をすると、とてもうれしそうな顔をしてすぐに車を飛ばして連れて行ってくれた。せっかくだから、色々な形の貝殻を耳にあててみて、聴こえる音の違いをレポートにまとめたらどうだ?なんて気を利かせて自由研究のアドバイスをしてくれたんだけど、その頃の僕は少しだけ生意気になってたから、そんなの言われなくてもそうするよ、なんて憎まれ口を叩いてしまったけれど、それぞれの貝殻を写真に撮ってレポートに載せるっていうアイデアはそのまま採用させてもらったんだ。パパ、ありがとうね。

 そうやって仕上げた自由研究は、どういうわけか先生にほめちぎられたんだ。殻の形ごとに音の違いを調べるというアイデアももちろんだが、それぞれの音を自分の言葉でコーコー、サーサー、ザザーッ、シュコーシュコー、というように書き分けているのが素晴らしいな、みんなにもこういうみずみずしい感性で取り組んでもらいたかったんだよ、親やネットやAIが教えてくれたことを書き写さくてもよかったんだ、なんて言って、クラスのみんなに紹介してくれた。僕はもちろん誇らしかったけど、正直シュコーシュコーなんていう音はでっち上げ以外のなにものでもなかったからちょっとだけ後ろめたいような気持ちにもなった。でも、たくさんの貝殻を家に持ち帰ってきたときには節分の日の鬼のお面よりもおっかない顔つきだったママが、僕の自由研究が市内の何かの賞を取ったことで、すっかり上機嫌になったのはよかったかな。どっさりの骨付きの唐揚げが食卓に並んで、パパもママもうれしそうに笑ってた。この日の唐揚げが一番おいしかったな。

 中学生になる頃には僕はクラスの勉強ができない奴らと徐々に距離を置くようにする程度の聡明さが備わっていたから、貝殻から聴こえてくる音が波の音なんかではあり得ないことくらい分かるようになっていた。そうはいっても耳に当てると一定の音が聴こえてくるのは揺るぎない事実だったから、その仕組みが気になってネットやAIを使って調べてみることにした。小学校のあの先生はきっと幻滅するだろうけれど、まあ大人になっていくってのはそういうことなんだ。先生だってたくさん大人たちに幻滅されたからこそ先生なんてものになれたんだろう。

 人類の英知を結集したネットやAIは、僕に二つの答えを教えてくれた。一つは環境に現実に存在している微量のノイズが、貝殻のすき間という小さな空間で増幅されることで、普段は聞こえないノイズが聞こえるようになっているだけだというもの。もう一つは、耳の中のある部分を流れている体液の音が流れる音が聞こえているのだというもので、僕を満足させたのはこちらの答えだった。というのも、その体液が流れている耳の中のある部分というのが蝸牛という名前らしく、蝸牛というのはかたつむりのことであるからだ。僕は別にかたつむりが特別好きというわけではないけれど、貝の中身のぐにゃぐにゃした感じとかたつむりの中身のぐにゃぐにゃした感じは何か近いものを感じさせるものであったし、殻を耳にあてた人間の姿なんてもうほとんどかたつむりのようなものだ。そうやって人間が自身の傲慢さを反省してかたつむりになれば、自身のかたつむりの中を流れる波の音が聴こえてくるというのは実にロマンチックで僕のことを大いに魅了したからだ。

 大学受験を控える頃には僕はクラスの勉強ができない人たちのことを軽んじられるような知性を自分が持ち合わせていないことを認識できるくらいには本当に聡明になっていたから、貝殻の波の音の正体が本当はどちらであるのか、もしくは他に別様の答えがあるのかを、調べようと思えば調べられるくらいの知恵はもっていただろう。でも、幸か不幸か、僕にはそれを調べようとするだけの情熱はなかった。だって、蝸牛を流れる体液の音が波の音のように聴こえる、という言葉は未だに十分過ぎるほど僕にとって美しいものだったから。もしもあの音の正体が何か別のものだったとしても、かたつむりを信じ続けることは、僕の人生に何の悲しみももたらさないし、僕の人生に関わる様々な他者に何らの害悪ももたらさないのだから、美しい方を信じていればいい。僕という一人の人間が何度人生をやり直したって知り尽くすことができないくらい、もう人類は多くのことを知りすぎたのだから、僕ら一人一人の人間は、自分が美しいと思えることだけを知っていけばいい。だからあの先生にとって、シュコーシュコーという波の音はみずみずしい感性の現れだったのだろう。

 正確には覚えていないけれど、いつの間にか食卓は静かなものになっていた。ママは自分だけ、一本数百円もするシリカ入りの水を飲んでいる。水素水のことはさんざん馬鹿にしていたのに、どういう違いがあるのか僕にはわからないけれど、まあママにとってはそれが美しいと思えるんだろう。パパはテレビのニュースを見ながら、やっぱりオールドメディアは駄目だなとかなんとか独り言を言っている。ニューメディアで世の中を斬っている時代の寵児こそパパにとって美しいのだろう。それらは僕にとっては美しいものでもなんでもなかったけれど、こんなふうになっても家族三人で食卓を囲むという習慣を続けようというママとパパの意地には、少しだけ美しいものを感じているから、何も言わないことにしている。

 さっと食事を終えて二階の自室に戻って引き出しから一つの貝殻を取り出した。数年前にママが起こした癇癪を辛うじて逃れた唯一の生存者だ。これはどういう音のするやつだったかな、と思いを巡らせていると、階下からパパとママが何か言い合う声が聞こえてくる。どうもあまり美しい内容ではなさそうだったから、僕は貝殻を耳にあててかたつむりになった。シュコーシュコー、という音が聴こえた。



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