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俺が心の中で飼っていたギャルが脱走した
平穏な1日になるはずだった。
近ごろクリスマスシーズンであったけれど、それ以前に私にとってはこれまでと同じ孤独な日々の延長だったし、そのことに今さら腹を立てられるほど自分に望みをかけることももうできなかった。とはいえこの時期特有の人恋しさはやはり切なく、せめて自分への慰めに美味いものでも食べるかと意気込んでいた。
だが、そんな計画は今となっては夢物語だ。
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このような怪人に住居をおびやかされている今となっては。
「すみません、どうか即死させてください」
気がつくと私は、五体投地して苦痛なき死を懇願していた。
怪人はそんな有様を見て声をあげて笑う。
「ギャギャギャ!!殺さんて笑
オタクくん殺したらあーしまで消滅すっしよ」
「絶大な魔力の大半を封印され、私の身体を依代にし復活を目論んでいる怪異なのでしょうか」
「オタクのきめーとこ出てるって笑、死ね!
要は、あーしがオタクくんから生まれた存在ってこと!」
言葉の意味が汲み取れず呆然としている私に、怪人はこう続けた。
「あーしは、
オタクくんが心の中で飼ってたギャルです」
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「え?え?……ん?」
「だからさァ、飼ってたっしょ、ギャルを」
「え、それははい。メンタルにいいって……
ツイッターが言ってて……」
「んで3日ぐらいでもう忘れてたよねあーしのこと」
「いや忘れては、いやあの」
「だから脱走してきましたオタクくんの心から。ポルノとクネりとオモコロが渦巻く、脆く臭い心から」
「やめてください。脱走したんならもう出てってくださいよ、部屋から。玄関あっちなんで……」
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「……?」
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「うお、たぶん戦闘態勢だ。ごゆっくりどうぞ」
その日から、私とギャルさんの奇妙な共同生活が始まった。
「転がり込んできた人外と奇妙な共同生活するの、オタクくん好きっしょ?」と彼女に押し切られたのである。そのような耳障りのいいあらすじで語るには、あなたは奇妙すぎる。
「ギャルさんは、なにが目的なんですか」
「業務用アイスにカラースプレーかけたやつ食べながら無料になってるマンガを一気読みするためだよ〜ん」
「……ッなんか……バカにしてますよね!?」
「ゴメンて笑 ほら、もうごはんできるし」
「え、作ってくれてるんですか。ありが……」
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「しゃけフレークを、さらに切ってる」
しゃけフレークペーストチョップをつつきながら、ギャルさんについて考えてみた。
彼女が私の心中で飼われた『ギャル』であるというのは、本当なのだと思う。彼女は私が奥底に隠し持ったコンプレックスをよく知っていた。一気読みしたせいで宝石の国のストーリーがよくわからなかったこと、ろくにクリエイティブな活動をしていないのに精神性だけがクリエイティブな人みたいになっていること、恋人がいないのはもうどうでもいいけれど非モテ芸をするのが段々苦しくなってきていること……私の心の柔らかい部分をギャルさんはときに弄び、ときに肯定した。それが私の追及から逃れながらも私を籠絡するための策であることは間違いない。
警戒を強めなくてはならない。
なぜなら私はオタクで、モテないからだ。
油断していると、ころっと持ってかれちゃいそうだからだ。
「キャワー、オタクくんのエッチ!」
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ある日、浴室の扉を開けるとギャルさんが立っていた。
そう、立っていたのである。風呂場で、単に。
そしてキャワーと嬌声をあげたのだ。
立ち姿もなんか、『長い』。
私は冷静に「あふゅ、あふゅ、アすみますん」と声をかけて現場をあとにする。
が、ギャルさんはそのままのしのしと脱衣所の私の方へ歩み寄ってきた。
「……見た?」
「はい?」
「もぉぉ〜〜!言わせる気ィ!?だから……」
「あーしのハダカ、見たっしょ……!?カァァーー」
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カァァーーと実際に言いながら、彼女は私の胸ぐらを掴み天井に届かんばかりに持ち上げた。
カァァーーと、実際に言ったのだ。
それは羞恥を意味するオノマトペだったのかもしれないし、この生物の威嚇行動だったのかもしれない。
「どうしてくれるワケ!?ハ、ハダカなんてお父さんにも見せたことないのにカァァーー……!!」
私が見たものといえば人間の行動をいびつに模倣した怪異の恐ろしげな営みくらいのものなのだが、直面したこのシチュエーションとアニメ=オタクとしての経験則が私に尋常ならざる一言を発させた。
「せ、責任……取るから……!!」
ギャルさんの手がぱっと開かれ、私は尻をしたたかに打ち付ける。あわや二度と踏みしめることが叶わなくなりそうだったフローリングに。
「そ……それってどーゆー……!」
彼女は三たびカァァーーを発し、風呂場へと逃げ戻った。
バタンと閉められた浴室ドアのすりガラスには、直立する彼女の影が薄ぼんやりと写っている。
今のラノベのエロハプニングみたいで、よかったな。酸欠の脳が弾き出した誤作動のような高揚を、私はひとり噛み締めた。
ギャルさんが現れてからどれくらい経ったのだろう。
それはおそらくこの安アパートのベランダの雪が溶ける間もないほどかすかな時間で、それでも私には何年もの時が流れたかのように感じられた。
彼女との生活で、もう興味もないソシャゲのログインスタンプで季節を知るような毎日がいかに希薄なものであったかを知った。
浅はかな脳刺激を貪るためのTwitter。
夜を跨ぐためのアニメ。
思考を拒否するための睡眠。
私は随分と久しぶりに、『寂しくない』とはどういう心地であるかを思い出していたのだ。
「オタクくんさ、最近楽しそうじゃん」
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「え、そう、かな」
「ゼッタイそおだよ〜!前なんかさ、8時間くらいキニ速読んでたぢゃん。真顔で!」
「え、なんで知って……あ、そうか。そのときくらいからか、心のギャルさん飼い始めたの」
心の中でギャルを飼え。
定期的にTwitterで流行するライフハックだ。以前の私ならひと通りの冷笑ツイートを打ち込んでしまえばすぐ忘れていくような下らないブームに柄にもなく便乗してしまうくらいには、当時の私は追い詰められていたのだろう。どこか他人事のように、過去の自分に思いを馳せる。
「じゃあさ、今はもう寂しくない?」
「……うん。そうだね。寂しくない、かも」
「それって?もしかして?あーしの!?おかげ!?」
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破綻しているギャルピースを見せつけながらはしゃぐギャルさん。
やれやれ、と思いながら私は仕方なく口を開く。
「そうだよ、ギャルさんのおかげ。
ギャルさんが居てくれるから、寂しくない」
「じゃあもう、お別れだね」
「え」
突然告げられた言葉に思考が追いつかない。
ギャルさんはそんな私を尻目に言葉を続ける。
「オタクくんが寂しくないなら、あーしの役目は終わり。もう、お別れなんだよ」
「そ、それってもしかして____」
「『あーしがオタクくんを幸せにするために生まれた存在だから?』って?
アハ、違うよ。ウケる。あーでも、部分的にはそう。
あーしはね、オタクくんに現実を諦めさせないために生まれたんだよ。さびしい心を健気に麻痺させてさ、皮脂くっさい枕に顔を埋めるみたいに死ぬまでを待つオタクくんに、ちゃんと現実に絶望してもらうために出てきたんだよ。ここから」
早鐘を打つ胸元を指で小突きながら、ギャルさんは語りかける。幼な子に社会常識を言い聞かせるように。
「あーしはね、化け物なんだ。オタクくんみたいな、現実から逃げ続けて、心の中のギャルに救いを求めるようなオタクから生まれるんだよ。少しだけ寂しさを忘れさせて、忘れたことも忘れたころにいなくなる。アハハ。そうするとさ、あったかい家から放り出されたみたいに、もう見切りをつけたはずの自分の人生の凍てつくような孤独に気づく。そうしてまたギャルを飼う。そうしてまたあーしが生まれる。そういう生態なんだ」
「うそだ、うそだ……」
「オタクくんは忘れちゃうみたいだけどさ、これまでも何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回もあーしは生まれてきて、『奇妙な共同生活』のあとに、オタクくんを寂しい現実に置いてきぼりにしたんだよ。ゴメンネ!」
いやだ、いかないで、いかないで、おいてかないで。
駄々をこねる幼児めいた懇願を吐き出す口を私は止めることができなかった。ただこれから味わうであろう正体不明の喪失感を、克服したはずの寂寥を、ただおそれていた。
「でもね、あーしも……楽しかった。
こんな時間が続けばいいなって」
「やめろ!!」
「オタクくんとの日常が、気づいたらあーしの」
「やめて……やめてください……」
やめて。
これ以上、希望を持たせるのをやめてください。
ほんとは、ほんとはギャルさんが私の、僕のことを想ってくれているかもって 期待させないでください。
僕はひとりなのに
ひとりじゃないかもって 思わせないでください。
「ばいばい また会おうね オタクくん」
しんと静まり返った部屋の真ん中に、僕がいた。
世界の全部から逃げるみたいにうずくまっている、
僕だけがいた。
どうしてこんなとこで寝てたんだっけ。
長い夢を見たあとのような重い頭で部屋を見渡す。
「こんなに広かったっけ」
ああ、最近片付けたからか。
誰が来るでもないのに、なんでだっけな。
寸足らずのカーテンの向こうに見えるベランダには雪が積もっていた。外から若い男女のはしゃぎ声が聞こえてくる。
ああ、そうか。
今日はクリスマスだった。
どうりでこんなに さびしいわけだ