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あなたの言葉。わたしの言葉。【最果タヒ展感想】
心斎橋パルコで3月21日まで開催中の最果タヒ展「われわれはこの距離を守るべくして生まれた、夜のために在る6等星なのです。」に行ってきました。日曜日にTwitterで見た限りだと、入場待機列ができるほどに混雑していたらしいのですが、いくら人気でも月曜の13時に来る人はほとんどいないようで、自分のペースで、ゆっくりと見ることができました。その結果、箱としてはそこまで大きくない展示なのですが、2時間弱もいたのは間違いなく密度が濃かったからでしょう。
せっかくなので、感想を書こうと思うのですが、まだ展覧会は続いています。細かい展示内容を写真つきでアップしてしまうとネタバレっぽくなってしまいますので、できる限り内容には踏み込まずに書いてみたいと思います。展示の具体的な様子については他の人が写真つきでツイート、またはインスタにポストしているので、調べてみてください。
小学生のときから、「人が読んだときにわかりやすい文章を書きなさい」と言われ続けてきた。多分みんな、「わたし」が思うがままに書いた文章を突き返された経験はあるのではないだろうか。だから、ほとんどの人は、「わたし」の言葉を、「あなた」に読んでもらうために書く。「わたし」の言葉は、「あなた」との共有物になってしまい、一意に定まらない、宙ぶらりんなものになる。いくら宙ぶらりんはやめて、と叫んだところで、「わたし」が伝わらないときは伝わらない。ある意味では、「わたし」が言葉にした瞬間に、「わたし」の思考が「わたし」のものではなくなってしまう、とも言えるかもしれない。
最果タヒ展は、「わたし」ひとりのものではなくなった、そんな言葉がたくさんあった。メビウスの輪のように曲がりくねった詩。一回転する詩。森のように生い茂った、詩になる直前の言葉。道を進むと新たな景色が見えてくるように、または細胞が新陳代謝で入れ替わるように、私の心には、新たな言葉の断片がとめどなく入り込んでくる。
これは、最果タヒという「わたし」が紡いた言葉でありながら、もはや「わたし」の手から離れてしまった言葉たちだ。最果タヒにとって「あなた」である私たち観客は、言葉を区切ることによって、または言葉を繋ぐことによって、自分なりの意味を紡いでいく。切れ目や繋がりすら私たち「あなた」に委ねられた言葉たちは、テストの回答や作文のような、「わたし」に責任がある言葉ではない。それは真正な意味で「わたし」と「あなた」の共有物であり、もはや最果タヒという言語を、観客が組み立てたものとなる。
これは「わたし」と「あなた」の言葉ではなく、「わたし」と「わたし」の言葉であって、最果タヒという「わたし」と、観客一人ひとりの「わたし」が共同作業で作り上げた言葉である。最果タヒと観客は、向き合っているのではない。むしろ、露頭に迷いながらも一緒に出口を探していると表現する方が正確だろう。
最果タヒ展は、「言葉が揺らぐ」様子を、物理的にも、意味的にも、リアルに体験できる、そういう展示だった。そう考えると、観客としてチケットを買って、心斎橋に行った私は、もしかすると「私の体験した最果タヒ展」を、最果タヒさん、佐々木俊さんはじめ、スタッフの方々と共に作り上げているのかもしれない。
これは、誰のものでもない、「わたし」の最果タヒ展だ。
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