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ハンセン病歌人・津田治子
ハンセン病の患者でありながら短歌結社「アララギ」のメンバーとして世に作品を問うていった津田治子(1912-1963)。
その津田さんの歩みを多くの資料で読み解いた、熊本県合志市の菊池恵楓園歴史資料館の原田寿真学芸員が2025年2月1日(土)に国立ハンセン病資料館映像ホール(東京都東村山市)で講演した。
「治子は歌の中に生きていました。自らの境遇の悲惨さを嘆くのでなく、歌の中で美しい世界や純粋な世界を成立させようとする志向が強く認められるのです」と原田学芸員は語った。
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治子は1912年、今の佐賀県唐津市呼子町で生まれた。1921年に福岡に引っ越す。18歳の時にハンセン病を発症し、熊本県にあるキリスト教系診療所「回春病院」に入院した。
1940年、同じ熊本県の国立菊池恵楓園に入る。短歌結社「アララギ」の歌人として、戦後名声を得る。ハンセン病患者でありながら、本名、本籍地、家族など素性が明らかになっていた。
1944年に最初の結婚。32歳の時だった。夫と死別した後、再婚。1955年、「津田治子歌集」を出版した。これによって広くその名が知られるようになった。治子43歳の時だ。
治子は妻帯者である伊藤保に言い寄られたりしたそうだ。
1963年に治子は亡くなる。享年51。
旧約聖書ヨブ記から取った「忍びてゆかな」
1982年に治子は本の主人公として蘇る。
その本のタイトルは「忍びてゆかな 小説津田治子」。治子はクリスチャンだったが、この書名の「忍びてゆかな」は旧約聖書の「ヨブ記」にある言葉から治子が1939年に詠んだ歌から取っている。
その歌は「現身(うつしみ)にヨブの終わりの僥(しあわせ)はあらずともよし忍びてゆかな」というものだ。
治子はヨブ記に自らの姿を重ね合わせながら読んだのではないか。
というのもヨブ記というのは神の裁きと苦難に関しての文章だからだ。
つまり何も悪いことをしていないのに苦しまなければならないというテーマを扱っているとされるからだ。なぜ、自分はハンセン病で苦しまなければならないのか?という神への疑問である。
「忍びてゆかな 小説津田治子」の著者は大原富枝。
富枝は1912年、高知県に生まれた。
原田学芸員は「高知というのはハンセン病患者の放浪と特にかかわりが深い」と話す。それは宮本常一の「忘れられた日本人」の中で触れられているという。講演会場の国立ハンセン病資料館の入り口近くには母娘像がある。
ハンセン病療養施設への入所前に四国88カ所霊場をお遍路する母と娘の姿である。そういうことはよくあったのだという。
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「ハンセン病政策史に対して深い理解があることです。小説ではあるが、正確に押さえている。また、療養所独特の生活習慣や入所者ならではの心情への深い理解もあることです」と原田学芸員は大原富枝の小説「忍びてゆかな」の先進性について解説した。
同じ入所者で津田治子の友人だった畑野うめは、駆け落ちして療養所を逃げ出した小説葦原よしののモデルだ。1949年に入所し短歌、陶芸など様々な文化活動に取り組んだ入江章子と畑野には大原富枝は詳しく話を聞いて「この二人の協力によってリアルな描写に成功しました」と原田学芸員。
さて、大原富枝は上京後、文筆活動に入り、1957年に「ストマイつんぼ」で第8回女流文学賞を受賞した。
1960年には「婉(えん)という女」で第14回毎日出版文化賞、第13回野間文芸賞受賞。一族が一つの屋敷に幽閉されてしまう。そして一族の男子が死に絶えた40年後に婉は解放される。しかし、突然得られた自由をどうしたらいいのかを婉が模索する姿を描いた作品である。
社会派の巨匠・今井正が映画化し1971年に公開された。
原田寿真学芸員は1986年佐賀県出身。熊本大学卒業。熊本大学大学院博士課程修了。2010年より菊池恵楓園歴史資料館学芸員。刊行物の監修多数、史料調査、講演などを行っている。