三原綱木が回想するブルコメ
ジャッキー吉川とブルーコメッツのギタリスト三原綱木さん。1966(昭和41)年のビートルズの日本公演では前座を務めた。若い世代には年末の紅白歌合戦の指揮者といったほうが通りがいいかもしれない。
その三原さんがギターとの出会いやブルーコメッツの歩みを語った。
三原さんが小学校3年生の時、当時住んでいた三鷹に一軒だけあったレコード屋で、ギターを持ってカントリーを歌っている進駐軍の兵隊さんがいた。「ぼくもあれくらい弾けて歌えたらいいな」と思ったという。
指が小さくギターの習得は困難だった。10年練習をやったのち、先生からクラッシックギターからジャズギターに替えたらどうかといわれた。それで、いまでいうエレキギターに切り替えた。
高校1年で学校を辞めて、いろいろなバンドで演奏した。例えば渡辺プロ系列の「ファイアボール」というグループもその一つ。「ダイアナ」とか「オー・キャロル」とかアメリカンポップスを演奏していた。
「ファイアボール」の兄貴分のバンドがジャッキー吉川とブルーコメッツだった。ブルコメのギターが高齢で辞めるというのでぼくに目がとまったようだった。「譜面とかいろいろな試験を受けて、合格した。16歳の時だった」。
「ブルコメは演奏のバンドでナベプロに所属しており、そこの歌手、例えば中尾ミエさん、伊東ゆかりさん、ザ・ピーナッツなどの伴奏をやっていた。ブルコメはみんな譜面が読めたので信頼された。ザ・ピーナッツは労音、民音のコンサートが中心で全国を回った」。
三原さんはビートルズをすごさについて語った。
「彼らは独自のサウンドを作った。バスドラでドンストトンというリズムを作った。ジョージ・ハリスンのギターはカントリーからきているようだ。天才が集まっている。ジョン・レノン、ポール・マッカ―トニー、ジョージ、この3人はすごい。作詞作曲が出来る」。
「大ちゃん(井上大輔)がビートルズみたいなグループを作ると言ってブルコメを作った。真似から入らないといけない。フジテレビに「ザ・ヒットパレード」という番組があって、ディレクターの杉山こういち先生にオリジナル曲を作るように促された。それでデビュー曲「青い瞳」が出来た」。
まず英語で出した。当時のコロンビアレコードの邦楽には美空ひばり、島倉千代子、都はるみといった錚々たる歌手が揃っていた。洋楽はもっぱら英米の歌、バンド演奏だった。ブルコメは洋楽の所属となった。
「日本語で歌ってはいけないといわれた。バンド演奏か英語でやれと。当時はバンド演奏でいろいろとやりました。例えば007の「ロシアより愛をこめて」とかをインストで演奏した」。
英語版「青い瞳」をリリースしたが、地方のレコード屋にいくと「うちには英語のバンドのレコードはない。「青い瞳」なんてない」といわれた。探してみるとあって、陳列棚の一番前に置いて来たりした」。
英語版も売れたが、なにより日本語版は50-60万枚の大ヒットとなった。「「ザ・ヒットパレード」は杉山先生の番組だったんで、「青い瞳」も5位だったのが、やがて1位に。要するにチャートの何位になるのかって勝手に作ってしまっていたようだった」。
ビートルズの日本公演の前座で内田裕也さんと尾藤イサオさんのバックでブルージーンズとともにブルコメは演奏。一曲目が「Welcome Beatles」だったが、「これは共演するんだから、何か書いてよ、ありがとうってといいたいからって内田裕也さんが大ちゃんに頼んで書いてもらった」。
「共演するとなると結構プレッシャーがあってビビった。実際のところ、自分たちはビートルズを見ることが出来なかった。セキュリティが厳しくて、武道館のトイレの上のほうにあるスピーカーで聞いていた」。
三原さんはビートルズサウンドにはぞくっとさせられた。「ジョージはギターはそれほどうまくない。でも個性がある。4人集まってあのサウンドを作ったのには感動させられた。真似できない。曲もいいし、詞もいい」。
ビートルズが帰ってから「ブルーシャトウ」が出来た、と三原さん。「もともとは木の実ナナさんのために書いたが、男っぽ過ぎるので嫌いといわれて、代わりにブルコメが歌い大ヒットした。インパクトのあるイントロだった。ぼくは(イントロは)大ちゃんが書いたと思っている」。
「橋本淳先生と大ちゃんが二人で品川のホテルに泊まりこみ曲を考えた。たまたまテレビをつけたら「月の砂漠」が流れてきて、それがヒントになって「ブルーシャトウ」が出来あがったそうです」。
「ブルコメはグループサウンズ(GS)ではありません。違う。GS人気が衰えた時、ムードコーラスが流行って来た。筒美京平さんが書いた「さよならのあとで」。これがきっかけでムード歌謡のほうに行った。かまやつひろしさんは「ずるい、ブルコメはGSから逃げた」」と言っていた」。
三原さんが書いた「雨の赤坂」はオリコンの2位をキープして、売れまくった。「印税ががぽっと入った。今でいうと数千万円くらいかな。それまでは大ちゃんと小田啓義さんが曲作りの中心だったが、もっと早くから曲を作っていればよかったと思った」と三原さん。
この頃から三原さんは森進一やいしだあゆみらに曲を提供した。
「ブルコメは月給一人300万円だった。リーダーのジャッキー吉川が偉かった。自分だけでなく、みんなでそれを折半し、給料は同額だった」。
その後、田代みどりと組んで「綱木&みどり」で3年間活動。
そしてナベプロからバーニングに移籍する。マネージャー兼ディレクターのようなことをやっていたという。「周防(郁雄)社長から、郷ひろみが入って来るので、バックバンドを作ってくれと言われた。それで「綱木バンド」を作った。40歳の時だった。ちなみに郷ひろみは30歳だった」。
そのあとが「三原綱木ニューブリード」。小田さんが1年やったあとに引き継いだ。小田さんはストレスから胃潰瘍になってしまった。
「バンドリーダーの命は15年といわれている。身体ががたがたになって死んでいくといわれていた。そこをぼくが30年近くやったというのは凄いことだと思っている。歌いやすい、演奏しやすいと言われた」。
「ブルコメで訓練され、郷ひろみに訓練されたことでニューブリードで活躍出来たと思っている」。
そう、1980年代半ばから30年近く、三原さんは大みそかのNHK紅白歌合戦で指揮棒をふるった。