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週刊誌の時代の男たち⑬

第11章「昭和天皇の野球チーム」
〇1988(昭和63)年――――「天皇の野球チーム」(徳間書店)――昭和天皇が若かりし頃、早稲田大学野球部関係者の協力によって宮内省内に自分の野球チームを持っていたという秘話を掘り起こしたノンフィクションだ。巻末に昭和天皇を伯父に持つ“ひげの殿下”こと寛仁親王(ともひとしんのう)のインタビューが掲載されている。のちに日本テレビ系列でドラマ化された。
 あとがきに取材のきっかけが記されている。
 女子プロ野球生みの親、小泉吾郎さんに取材した時にこんな話を聞かされた「わたしは面白いコースをたどりましてね。実は大連実業に入るまで、しばらく宮内省の野球チームにいたんです。その宮内省野球班は摂政宮、いまの天皇陛下のお声がかりで生まれた”天皇
野球チーム”なんですよ」。


 担当した元「徳間書店」の編集者で現在は幻冬舎常務・志儀保博さんは1987(昭和62)年入社で一年目にこの本を手がけた。
 「タイトルは最初からいいと思いました。桑原さんがつけたんだと思います・・・覚えているのは、原稿の途中から何度も追加が入ってきて、コピーして切り貼りしたこと。次から次へと追加が入ってきたのを覚えている」と話す。
 「本が出来ると見本の10冊を家に届けに行った。いい本が出来たと喜んでくれた。当時、「天皇の料理番」とか「ミカドの肖像」とか天皇ものがヒットしていたので、書籍部長の山平(松夫)が飛びついたのでは」。

なぜ川上哲治でなく大下弘か?
 〇1989(平成元)年、―――「青バットのポンちゃん大下弘」(ライブ出版)――ポンちゃんこと大下弘はプロ野球・西鉄ライオンズのスラッガーだったが破滅型の男だった。一種の生活破綻者でもあった。しかし、野球に対しては常に真摯で、ひたむきな姿勢を崩さなかった。その男の一生を愛情込めて描いた。


 「週刊大衆」1989年7月10日号に掲載された書評はこう書いている「戦後の焼け跡の時代に大下の空高く弧を描いたホームランは希望の象徴であり、現在のプロ野球の隆盛はその華麗なホームランに負うところが大きい」
 「確かに、巨人9連覇を成し遂げた川上の管理野球が日本のプロ野球をスケールの小さい、いじましい野球にした張本人なのである。二日酔いでも7連続安打の記録を作り、野球がすめば仲間を引きつれ自腹で底抜けに飲み歩いた大下の豪快野球。のびのび野球とはまるで正反対の方向へ進んでしまった」
 「本書は銀座の三悪人と勇名をはせ、借金だらけの放蕩無頼の生活をしながら本塁打王や二冠王に輝き、西鉄の黄金時代を築いたドラマチックな人生を過不足なく描いている」。
 そして、この本のあとがきが稲敏の作品のテーマの選び方についての考え方がよく分かる文章なので引用する。
 「歴史の非情なからくりの中で、常に「一番手」だけが時代の華として脚光を浴び、その眩しい光芒に「二番手」以下の偉大な足跡はかき消される。その時代に輝いた幾多の寵児たちも、昭和人名事典の片隅にひっそりと埋もれてしまう」
 「ところが私はヘソ曲がりのせいか、その時代を代表するきらびやかな「一番手」よりも、マスコミが顧みない「二番手」のほうに心が惹かれる」
 だから、「人物による昭和史」の人選と執筆を依頼された時も、「その「二番手の詩」をぜひ書きたいと思った。マスコミ関係の友人は、そんな私の心情を「桑原のマイナー志向」と嗤うが、こればかりは性分だから仕方がない」。

エスカレートした家庭内暴力
 昭和から平成に変わる頃も酷かった。仕事のアシスタントをしていた女性と関係を持ち、つきあうようになったのだ。後に桑原稲敏が再婚する服部みゆきさんだった。
 深夜、家族が2階に上がると稲敏はみゆきさんとひそひそ声で電話をしていたものだ。当時、1階の居間に電話があった。長男が風呂に入るために降りて行くと、稲敏は急に「その件は・・・」などと言ってごまかしていた。
 そして、稲敏が家に帰って来ない日が多くなった。泰子はそれまで父の仕事の手伝いのため、アルバイトに出ることを禁じられていたが、さすがに働きに出た。稲敏は家にカネを入れなくなり、そのうえ泰子に台所を使うことを禁じた。
 泰子は朝早く家を出て、夕方、仕事が終わると、新宿へと移動して友人のブティックに行き、そこでお茶を飲み、夜は台湾料理の店で軽く飲んで、終電で帰る毎日だった。出来ることなら、稲敏とは顔を合わせたくなかったのだ。
 ただ泰子は自分に厳しく課していたことが一つあった。それは決して外泊はしないということだった。
 みゆきさんとはどういう経緯で知り合って、彼女がアシスタントになったのか諸説ある。

アシスタント
 一説では早稲田大学第二文学部在学中に、みゆきさんが稲敏にファンレターを書いて、アシスタントにしてほしいと頼んだという。
 みゆきさんは稲敏に弟子入りしようというだけあって、落語など古典芸能にも深い知識を有していたようだ。
 若くて自分と同じような趣味趣向を持つみゆきさんを稲敏が可愛がったのも当然だったのかもしれない。
 みゆきさんをアシスタントとすると同時に、二人で寄席などにも出かけていたという。
 弟子であり趣味を同じくする仲間であり「ガールフレンド」となったのである。稲敏はみゆきさんに夢中になる。
 保谷の家のことをさらに振り返らなくなるのは当然の帰結であった。
 とばっちりを受けたのは次男・英介だった。高校の学費を支払ってもらえなかったのだ。泰子は借りて支払った。
 稲敏の死後、遺産分割協議の中でこの学費は稲敏側が支払うべきものだとして30数万円を次男が受け取った。
 話しを戻そう。やがてみゆきさんは新たな命を宿す。
みゆきさんの父親は、何と不倫相手の妻である泰子に電話をしてきたそうだ。「うちの娘を傷物にしやがって」と泰子に文句を言ってきたという。
 泰子にしてみればお門違いの苦情を聞かされて、とんでもない話だった。

人知れず悩んでいた泰子
 浜松市立高校時代からの友人・能勢恭子さんは、「泰子さんはご主人に浮気されて悩んでいた。精神的なことから「頭にはげが出来ちゃったのよ」って見せてくれたことがあった」という。
 「それで「離婚するのよ」って。
 さらに、「この家は子どもたちが使えばいいから子どもたちに渡せばいい」と言っていた」。
 稲敏はこの頃、家を売ってそのカネを半分ずつに分けようと主張していた。でも泰子は能勢さんに「ご主人のことはほとんど話さなかった。強いですよね。話すことはもっぱら絵のことと皮(工芸)のことだった」そうだ。
 問題は新潟の姑にあったのではないかと女子美のクラスメート島博子さんはいう。「蹴っ飛ばしてやりたいくらい。彼女(泰子)はすごく我慢したと思う。彼女は大事に育てられたので、「なんだ、このババア」って思っていれば流せるけど、彼女は考え方が固いところがあったから、それが難しかったのでしょう」と島さんは話した。

家を出た桑原稲敏
 稲敏は1988(昭和63)年の秋ごろまでには保谷(現在の西東京市)の家を出て、小金井市に引っ越していった。
 泰子が何度も「家を出る時は私がいる時にしてください」と言っていたにも関わらず、泰子が仕事に行っている留守に稲敏は「仲間たち」と車で乗り付けて、引っ越したそうだ。
 帰宅した泰子は驚いた。一階の南側の稲敏の部屋はがらんどうでゴミだけが大量に残されて、倉庫には切り抜きのため保存してあった新聞の束がそのまま残されていたという。
 働きながら泰子はその後始末をするのが「大変だった」とこぼしていた。
 今考えると、稲敏は一芸に秀でさえすれば社会人あるいは生活者として破綻していても認められるのだという芸の世界のことを、暴力をふるい家庭を顧みない自分のことを「正当化」する「言い訳」にしていたフシがあったように思われる。
   (続く)

 

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