週刊誌の時代の男たち②
女性自身は三田佳子とマネージャーの恋愛をすっぱ抜いた。
このスクープには余話がある。「桑さん(桑原稲敏)の息子たちはまだ小さかった時だが、桑さんの家に変な電話がかかってきて、安全のために家族に二週間くらい都内のホテルに“避難”してもらった」と桑原の担当編集者だった奥永文彦さんは回想する。
桑原の妻・泰子(当時)によると「出版社持ちなら何を頼んでもよかったのに、それを知らなかったから、ルームサービスでオムレツばかり取っていたわ」と笑い話にしていた。
桑原も、怪電話は夕方に始まって朝方に止むので、生前「あいつら俺と同じ生活時間帯じゃないか」と言って笑っていたという。
2年間で300本の記事を書く
この話をしてくれた奥永さんは入社2年目、25歳の時、桑原と出会った。桑原は2歳年下だった。
「私は社員で月給が2万5千円だった。桑さんは当時“特派記者”と呼ばれていた契約記者で週給6千円、ほぼ同等の給料でした」。
「桑さんとは気が合って、お互いに初対面でどこか通じているなと、以心伝心のような気がして、お世話になろうと思ったんです。向こうは芸能界の大ベテランでいろいろな話をした。そして桑さんに仕事をお願いできませんかというと「いいですよ」と」
「それから延々と桑さんが亡くなるまでつきあいは続いたんです。でも、本当にぴったりと付き合ったのはおよそ2年間、とにかく毎日会って、いろいろな情報をもらっていた」。
「当時週刊誌は、年間175週あるけど、合併号とかもあるので135週。約2年間で、300本近く二人で書きました」。
「毎週、芸能記事を1本か2本、表紙に刷り込まないといけなかった。そりゃ神経がおかしくなる。いまだに締め切り前にせっつかれているような恐怖があるんです」。
ちなみに「当時の編集長は桜井秀勲さんで、その人は大編集長。のちに「微笑」の編集長などもする人でとても厳しかった」。
「締め切りが終わった途端にぐったりしていると桜井さんが「プランを出せ」と言ってくる。出るわけがないじゃないですか。だから適当に嘘八百でごまかして、また一週間回していた」と奥永さんはいう。
「桑さんは頼りにされていて、一本(書かなければいけない原稿を)持っている上に、ニュースが入ってきたら桑さんが助っ人で入ったりしていた。“あのプロダクションは桑さんじゃないと駄目だ”とかいって。だから桑さんはけっこうハードな仕事をしていました」。
しとしとピッちゃん
また当時、こんなこともあった。
どういうことで始めたのかは今となってはわからないが、飲み屋に女性を派遣する仕事を桑原が手伝っていたことがあった。
だが、相棒がおカネを持ち逃げしてしまった。桑原は問い詰められ、逃げ回った。ある日、泰子は家にあった有り金すべての2万円を持って、長男の手を引き原宿の事務所へと向かった。雨の日だった。
事務所の社長はイスに深々と座ったまま、傘を片手に幼い長男の手を引く泰子の姿をじっと見ていたそうだ。
「参ったなぁ、奥さん。しとしとピッちゃんからカネをもらうわけにはいかねえよ」。
また、桑原は、加山雄三の「若大将シリーズ」のヒロイン役で人気を博した女優・星由里子の結婚話をすっぱ抜いたこともあった。
由里子は、白木屋の株買い占めなどで知られる、資産数十億円の実業家、横井英樹の長男・邦彦(当時、トーヨーボーリング総支配人)と結婚することになるが、「この時も大騒ぎになった」と奥永さんはいう。
「確認をとるため、神田にあった由里子のお兄さんの家を訪れると「つきあっている」と話してくれて「結婚!」という記事を出した」。
「独占スクープ 星由里子が横井邦彦(財界の黒幕横井英樹氏令息)と結婚!」という見出しの記事を「女性自身」は1967(昭和42)年8月21日号で4ページにわたって掲載した。
邦彦が数か月前にヨーロッパ旅行で辿ったコースをなぞるようにして由里子も旅をしたことを「心理的な婚約旅行」とし、父の横井英樹が星家に出向いて長兄の星雄一を驚かせた話、そしてもちろん邦彦の由里子への熱い思いをインタビューで聞き出している。
星由里子の結婚と離婚
そして二人は結婚する。
1970(昭和45)年10月26日、帝国ホテル「孔雀の間」で結婚披露宴が開かれ、政財界の要人1500人が招待された。ケーキはなんと高さ8メートルだったそうだ。
「女性自身」の同11月7日号は「11年間のマラソン恋愛のすえ、ついにゴールインのご両人」、「新居はなんと1億円!」という記事を載せた。
しかし、二人は結婚からわずか2か月半で破局してしまった。
「女性自身」1971(昭和46)年1月30日号は「スクープ 星由里子、横井邦彦氏夫妻が離婚!」との見出しで報じた。サブ見出しは「2か月半で破局―最後の話し合いを終えた夫が語るその真相」だった。
そうこうするうちに、邦彦の父・横井英樹が、由里子のもう一人の兄・星三記男、いわば「出て行った嫁」の兄を、「手先」として、兜町、大引け間ぎわの2分間でおよそ2000万円を株価操作によって稼いだという話が業界を駆け巡った。
その株式売買の手口について「週刊新潮」1971(昭和46)年6月19日号は詳しく報じた。星三記男は昭和33(1958)年に早稲田実業を卒業して証券界に入って以来の証券マン。
三記男の次のようなコメントが紹介されているー「業界に対して迷惑をかけたことは申し訳なく思っております」
「妹との関係でずいぶんいろんな憶測記事を書かれていますが、私もプロですからね。割り切って、横井さんとはその後も一顧客として接しています。ですから、事の経緯も、なにぶん横井さんというお客のことになりますので、私の立場上、申し上げることはできません」。
それからおよそ40年後の2008(平成20)年、横井邦彦が自殺する。30人以上もの死者を出した火災の後、無残なままに放っておかれた赤坂のホテルニュージャパンで首を吊ったのだった。原因不明とされる。
ちなみにラッパーのZEEBRAは横井邦彦の妹の息子であり横井英樹の孫だ。
(続く)