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「セッションマン」を観た!

 これは生涯サイドマンだった男がフロントマンの映画だ。
 グランドスラムを2つ達成している唯一無二のアーティスト。
 そう、ザ・フー、ザ・キンクス、ローリング・ストーンズ、ビートルズのすべてと仕事を共にしたことがある。また、ビートルズのメンバー4人それぞれのアルバムに参加したこともあるのだ。
 2024年9月9日(月)、映画「セッションマン:ニッキー・ホプキンズ ローリング・ストーンズに愛された男」(2023年/イギリス/87分)をアップリンク吉祥寺で観た。
 監督・脚本・制作はマイケル・トゥーリン。
 いい作品だった。


 関係者の証言によって、ニッキーのピアニストとしての並外れた才能および優れた人格が語られてゆく。
 そして、音楽性については何人かの証言者が実際にピアノを弾いてニッキーのプレイの特徴などを解説する。
 何よりもこのドキュメンタリー映画に説得力を持たせてリアルにしているのが、ニッキー自身による証言映像だろう。
 また、この映画から分かるのはニッキーは生涯のほとんどにわたり病と闘いながら、決して自らを目立たせることなく、その才能を他のアーティストたちと分かち合ってきたということだ。
 あれだけの才能を持っていたのならば、そして病に冒されていなければ、どれほどのスーパースターになっていただろう。
 セッションピアニストとして約30年間に250以上ものアルバム制作に参加した。まさに伝説のセッションマンだった。

 1944年2月24日、ニッキーはロンドン郊外で生まれた。
 子どもの頃からピアノに親しみ、56年、王立音楽アカデミーで本格的にクラシックピアノを学ぶ。60年にはサヴェイジズの一員となる。62年にはクリフ・ベネット・アンド・ザ・レベル・ラウザーズに加入。
 65年、キンクスとザ・フーの作品に参加し始める。
 翌年にはローリング・ストーンズと仕事を始める。
 きっかけは62年初めごろ、ニッキーが毎週マーキーズで演奏していたのをミック・ジャガーとキース・リチャーズが見たことだった。
 キースは回想したー「ニッキーは60年代の白人とは思えないくらい素晴らしい演奏をしていた」。

キース・リチャーズ


 ストーンズ作品でのニッキーの名演は多いが、特に「シーズ・ア・レインボウ」や「悪魔を憐れむ歌」「モンキーマン」が映画では挙げられていた。
 68年にはビートルズの「レボリューション」のレコーディングに参加して、印象的なエレクトリックピアノを弾く。
 同年、ジェフ・ベック・グループに参加する。同時期、ロッド・スチュワートが在籍していた。
 69年、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスに加入。イギリスからサンフランシスコに拠点を移す。
 また、ジェファーソン・エアプレインのバックでも演奏。
 スティーブ・ミラー・バンドの作品にも参加。
 70年代前半にはジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターのソロアルバムでもピアノを弾いた。中でも名演として名高いのはジョンの『イマジン』収録の「ジェラス・ガイ」だ。

ニッキー・ホプキンズとジョン・レノン


 タイトル曲はジョンがピアノを弾いた。ニッキーは重要な曲だしタイトル曲でもあるのでジョンが弾くのは当然だと考えたらしい。
 ジョージの「ギブ・ミー・ラヴ」やリンゴの「想い出のフォトグラフ」でのピアノも聞く者の印象に残る名演だ。
 同じくビートルズでもポール・マッカートニーとは80年代に入ってから『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のセッションに参加した。
 時間の針を少し巻き戻すと、73年、ニッキー自身のソロアルバム『夢みる人』をリリースした。

ニッキーのソロアルバム「夢みる人」


 その他にもジョー・コッカ―とも仕事をした。特に「ユー・アー・ソー・ビューティフル」のピアノは評価が高い。ジェリー・ガルシア、アート・ガーファンクル、バッドフィンガー、グレアム・パーカーらとも仕事をした。

 生涯ニッキーを苦しめた病が発症したのは早くも63年のことだった。クローン病と診断される。これは免疫系の病で、内臓に酷い炎症を引き起こし、当時は治療方法がなかった。

ベッドに横たわるニッキー


 94年のレイバーデイ、横になったニッキー。しかし、体調が悪化して救急車で病院に搬送される。しかし、手遅れだった。
 94年9月6日、この世を去った。享年50。

 ニッキーはショパンの生まれ変わりだと自分で語っていた。それもありえると多くの人がいうほど、ニッキーは高潔な人柄で、クラシックの素養があり、ピアノが素晴らしかった。

 ニッキーが参加したアルバム



 
 
 
 
  

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