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週刊誌の時代の男たち⑰
第15章―桑原の突然の死
新しい家庭を持ち仕事をしていた桑原稲敏。
その頃には東京の小金井市から横浜市保土ヶ谷区仏向町(ぶっこうちょう)のアパートに引っ越していた。JR保土ヶ谷駅からタクシーで10分程度かかる場所でけっこう遠かった。
仏向町は保土ヶ谷区西部に位置する同区最大の町である。自然に恵まれ、子育てに適した場所と言われており、おそらくみゆきさんが子育てを優先して選んだと思われる。
その変わった町名は仏に備える食物を意味する「「佛餉」から来ているとする説がある。
「噂の真相」の編集長・岡留さんは「仏に向かうってなんだか縁起が悪いなって話していたんです。岡留はオカルトとか嫌いな人なのにそんなことを言ったのでとても印象に残っています」と神林さんは話した。
桑原稲敏の息子たちが父親と会うことはまずなかったが、亡くなる数か月前に長男の亘之介が仏向町を訪ねたことがあった。
稲敏はかき揚げを揚げ、「辛丹波」という日本酒を亘之介に振舞った。話をいろいろとしたはずだが、あまり記憶にないと亘之介。
ただ、稲敏はこれからやりたいこととして「戦後芸能史を書きたい」と話していた。
人の道を外れたことはするな
稲敏の息子たちは子どもの頃から勉強や進学や就職なども含めて「ああしろ」とか「こうしろ」とか言われたことは一切なかった。
でもその日は一言あったそうだ。それは「何をやってもいい。でも人の道を外れたことだけはするな」だった。
また、稲敏は長男・亘之介にポツリと「あれでもお前らの母親だからなぁ」と言った。そして、「太宰治の「ヴィヨンの妻」を読んでみろ」と珍しく自分から本を勧めた。
これは単にいい本だから読んでみなさいということでなく、そこにはきっと稲敏と泰子という夫婦の関係、男女としての関係を理解するカギが秘められているのではないかと亘之介は思ったという。
太宰治の「ヴィヨンの妻」は、酒と借金に溺れる大谷とさっちゃんとの夫婦の物語である。夫婦関係や人間の弱さ、社会の暗部を描いている。
様々な出来事の後の「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と云うさっちゃんの言葉で小説は終わっている。
新潮文庫のあとがきで評論家・亀井勝一郎氏は敗戦後の太宰の心底にあった観念は「既成のすべての倫理、制度、家族関係、既成のすべての文学、これを破壊しつつ、自分の滅亡をも構想した反逆」だと分析。
太宰の場合には「そこにやりきれぬ虚無感から来た無目的の反逆、言わば反逆の無償性と言ったものがある」と書いた。
続けて亀井は「無頼漢とは「一粒の麦」だと彼は言いたかったにちがいない」とした
さらに亀井氏は倫理が「無頼漢という反倫理性と矛盾しつつ彼の胸底にあった。家庭の呪縛と言ったものを執拗に描き、家庭破壊をこれほどつきつめて考えながら、それがどんなに心の重荷になったか、これらの作品の背後にあるものはこの戦いである」と書いた。
「家庭のエゴイズムを憎悪しつつ、彼は新しい家庭の夢を追うたと言ってもいい。倫理に反逆しながら、新しい倫理を求めたと云ってもいい。その最大の証明は彼の抱いた罪の意識である。義の愛である」。
桑原が危篤に
1993(平成5)年12月27日の夜遅くになって、みゆきさんから亘之介のもとに電話があった。稲敏の様子がおかしいという。目が見えないかのように宙で手をかくようにしていると。亘之介はよく理解が出来ないままに、おかしな状態が続くなら救急車を呼んでくれと言って電話を置いた。
翌朝、留守電が入っていた。横浜市立病院に救急車で運ばれて、そのまま入院したというみゆきさんからのメッセージだった。
日本経済新聞の記者をしていた長男はその日、午前中に相撲で有名な国技館で知られる両国で金融関係の取材が入っていた。稲敏のことは気になったが、とりあえず取材に出かけた。
午前10時から一時間ほどの取材を終えて、JR両国駅近くの公衆電話から亘之介は病院に電話を入れてみゆきさんと話した。
すると稲敏が危篤だという。
長男は横浜の病院へと向かった。
病院に到着して簡単な説明を受けると、風邪をこじらせて、その菌が脊髄に入ってしまい、その菌が入った髄液が回ってしまって脳死状態になってしまったとのことだった。
何本もの管を繋がれて集中治療室(ICU)のベッドに横たわっている桑原稲敏はもう何の反応も示さなかった。表情もなかった。身体が硬直してしまっていた。時間が経つにつれて、桑原の仕事仲間や親戚たちが駆け付けてきた。
どちらが北政所?
前妻・泰子も次男の英介と一緒に現れた。みゆきさんは泰子を病室に近づけることに抵抗したらしいが、稲敏の友人数人が説得したらしい。稲敏の友人の中には泰子とみゆきさんとを比較して「どっちが北政所なんだ」というような話をする人もいた。
北政所とは正室(正式な妻)のことをいう。
そういうことを言う人がいる一方で、桑原の明治大の後輩で親友だった高橋彬さんは「親分が黒を白といえば白なんだ」という云い方をしていました。
さて、泰子はベッドで寝ている稲敏を見るや、そこにいた稲敏の妹・清子さんと抱き合った。
だが、清子さんはすぐに泰子から離れて「あんたなんか本当はここに来ることなんかできないんだからね」と言い放った。
もう稲敏と泰子は離婚していたから、清子さんにとっては他人だったのだ。それに稲敏から泰子のことを悪く言われていたのかもしれない。
みゆきさんには母親がもういなかったが、父親が小さなバッグを手にうろうろしていた。印鑑や通帳などが入っていたと後から聞いた。
早くに駆けつけてくれた桑原の友人たちの中には「噂の真相」編集長の岡留さんやカメラマンの高野博さん、明治大学の後輩で親友だった中華料理店の高橋彬さんらがいた。
岡留さんは一階のロビーで長男の亘之介に「取材」をして、父の状態を詳しく知ろうとしていた。高野さんは、いわば「四面楚歌」のようにもみえた泰子をサポートしてくれた。
翌日(12月29日)、桑原の状態に変化はなかった。そして夜。午後7時半過ぎに容体が急変し、亡くなった。みゆきさんは二人目の子どもを身ごもっていた。
長男は父の訃報を新聞のスタイルで書き、共同通信の社会部にファックスした。翌日の朝刊、とりわけスポーツ紙は写真付きで桑原稲敏の訃報を掲載した。
最前列で手を振り続けた泰子
一晩中、亡骸の前にお皿を置いてそこに火をつけた煙草をずっと載せていたのが高橋さんだった。もくもくと紫煙が部屋を満たしていた。桑原がヘビースモーカーだったからだ。
桑原は昔、ハイライトを吸っていた。一回喫い終わって灰皿に残されたちびた吸い殻に再び火をつけていたこともあった。晩年にはハイライトでなくセブンスターを吸っていた。
お通夜そして葬儀。多くの人が参列した。喪主はみゆきさんだった。
泰子も参列させてもらった。もらったというのはみゆきさんたちが、泰子が出るのに強く反対したからだ。
高野さんら稲敏の友人たちが、あくまでも渋るみゆきさんを説得したのだ。どんなことがあったとしても、最後のお別れぐらいするのは当然だろうと。
これは岡さんが目撃したことだ。お棺を閉じる前にみなが「最後の挨拶」をする時、泰子は自分の指輪を外してポンと投げ入れたそうだ。それは、女性のアクセサリーなどに全く興味がなかった稲敏が唯一泰子に買ってあげた指輪だったと泰子が何年か経ってから話していた。ありがとうって。
霊柩車が走り去っていくのを泰子は一番前に出て、車が見えなくなってもずっと手を振っていたのが印象的だったと岡さんは話していた。
泰子のかたわらには高野さんら数人が寄り添っていた。
年が明け、1994(平成6)年元旦。すでにこの世にいない稲敏からの年賀状がいろいろな人達に届いた。
長男・亘之介への年賀状には「切られた猥褻」が好調です」と見慣れた父の直筆で書いてあった。
津南高校の同級生・藤ノ木さんに届いた年賀状には「今年は盛大に同窓会をやろうよ」とあった。
「冷や酒でやろうよ」と前田忠明
1月半ば、「お別れの会」が開かれた。本当に寒い日だった。
今度は、泰子は出席を許されなかった。
泰子は、長男の亘之介がみゆきさんとともに挨拶をするべきだと強く主張していた。
泰子は来ることはかなわなかったが、従妹の宇都宮佳子が代わりに出席して、亘之介の挨拶のことなどを報告したようだった。
お別れの会の葬儀委員長を徳間書店の徳間康快氏に頼んではどうかという声もあったが、結局、父の古くからの友人・高橋彬さんにお願いすることになった。
友人代表の挨拶をしてくれたのは、稲敏の大学の後輩でもあった前田忠明さん。心に染み入るいい挨拶をしてくれた。
「二人でよく飲んだものだね。昔は貧しかった。また飲みたいよ。「桑さん、お酒は冷やがいいだろ。つまみはエイヒレかい?」と天国の稲敏に向ってせつせつと呼びかける挨拶だった。
(続く)