週刊誌の時代の男たち⑧
第4章―稲敏は芸人をどう見ていたか
桑原は芸人をどのように見ていたのか?
証言がある。元「週刊文春」編集長で現在は保守系雑誌「月刊HANADA」責任編集長を務める花田紀凱さんは「桑原さんは穏やかな人で、芸能界の悪口を言うことはなかった」
「芸能人に対して暖かい目線でいろいろと論じていたんじゃないかな。誰かを貶めるような言動はなかったと思う」
「桑原さんはその時々のスキャンダルというよりは、日本で続いてきた芸能の世界が根本的な関心だったんじゃないかな」。
さらに大下英治氏はいう「マスコミに芸能人は”商品“であるというかつてのような意識が薄い。昔の人は”商品“だと分かっていた。桑原さんもその時代の人なので、芸能人をいやらしくけなさなかった」
「でも人間を浮かび上がらせるという目的でしゃべっていた。桑原さんの発言で人間の嫌味な部分をえぐるというようなことはなかったと思います。だから二度と取材を受けたくないということは経験されなかったと思う」。
桑原稲敏と竹中労
大下さんと花田さんの話で期せずして出てきたのが桑原と竹中労氏の比較だった。
大下さんは竹中氏にもよく取材をしたというが「芸能でも竹中さんの場合は斬りこんでいく、ぶった切るとかで、それに対して桑原さんは穏当だった」と話す。
「桑原さんは人間に対して情を持っていて乾いた感じがしなかった。桑原さんは人間評論をした。例えば、話の最後に結論づけて「この人とこの人はどうだ」とか「まわりを傷つけるタイプだ」とか」
「「人柄」とか「育ち」とかを総合的に評論できたので非常に貴重な人だった」。
対照的に竹中氏は「クセが強くて、事実を評論する時に色がつきすぎた。それでファンがいたが、桑原さんの場合は人間を見る時にイデオロギーで見ることがなかった」。
花田さんは「芸能界といえば竹中労と桑原さんだった。竹中さんはコメントが面白かった。桑原さんは裏の話をしてくれた。桑原さんは芸能界の悪口を言わなかった。その点、竹中さんとは対極の人だった」という。
箱山さんはいう「桑原さんは「「タレント生命を失わせるような記事」はノーだよ」といっていました。若手新人歌手が地方都市で堕胎したとか、人気歌手の〇〇が宿泊先の・・・といったあまりにリアルすぎる話は私たちも記事にはしませんでした」。
「今の芸能記者と大きく違うのは、週刊誌はある意味、芸能界とはお友だちだったが、今は何かあったら(芸能人を)殺しちゃう。おお笑い芸人の松本人志の件なんて昔だったらありえない」と大下氏もいう。
そういった桑原のスタンスが芸能人の信頼を勝ち得た大切な要素だったに違いない。
ただ、桑原は手放しで芸能人を褒めるだけの人ではなかったのも事実だ。そこにはしっかりとしたジャーナリストとしての目があった。
茶の間が生む芸なし芸人
「現代の眼」1982(昭和57)年12月号に「茶の間が生み出す芸なし芸人」という記事を執筆している。この一文は稲敏の芸および芸人についての基本的な考え方がよく現れていると思う。
テレビ時代、「どんなに素晴らしい芸の持主でも、テレビという強力な宣伝媒体のごひいきなしには人気タレントたりえない」
「そこでは、狂気の情念をはらみ、放蕩無頼の生き方を貫いているホンモノの芸能より、茶の間のモラルや倫理観のなかに過不足なくおさまる人畜無害の“純情派”や“優しい隣のお兄さん”のほうが歓迎される」
「つまり人気タレントとは、絶えずブラウン管に登場する人間の代名詞に過ぎないのだ」
「かつて銀幕のスターといえば、文字通り空に輝く星であった。その素顔や私生活は厚いベールに包まれ、ファンには手の届かない存在だった」
ここで桑原はお笑い芸人・萩本欽一とザ・ドリフターズを比較する。つまり、欽ちゃんは素人が持つ計算されていないキャラクターを活用し、それを笑いの起爆剤とした。
それに対して、ザ・ドリフの芸は伝統的なもので、その「茶の間の倫理観やモラルからはみ出す“狂気の情念”が、小市民的な価値観に生きる(PTA族)の神経を逆撫でする」
「テレビを中心とした芸能界のアマチュアリズムは、芸能マスコミの報道姿勢にも及んでいる。テレビの芸能レポーターたちは、タレントの言動を茶の間の倫理観やモラルであれこれあげつらい、断罪する・・・中世の魔女狩りを思わせるものがある」
そして芸人とはそもそも何ぞやという話になっていく。
賤民の歴史と重なる日本芸能史
「わが国の芸能史は、賤民の歴史とぴったり重なる・・・すべての芸能を生み出し、それを磨きあげてきたのは、もちろん貴族でもなければ武士や文化人でもない。河原乞食とさげすまれてきた賤民たちであった」
小沢昭一氏の言葉を引用して続けるー「「散民所」の仕事の中に、のちに賤業とされたものがあり、芸能もまたそのひとつであった。一方、散所に入らなかった人達、あるいは散所から逃れて行った人達は、流浪の末に河原に集まる。河原は国家体制の外に生きる人びとのすみかである・・・歌舞伎の祖お国一座は、芸と売春を兼業とする漂泊芸能集団が京都の河原に集まった者であるといわれ、お国は歩き巫女出身との説もある」
稲敏はこうした芸人の捉え方に基づいて芸能評論をしていたのだ。
だからこそ、芸のない「芸能人」に対しては手厳しかった。芸がないから「芸NO(ノー)人」とよく言っていた。
ナベプロとホリプロ
桑原は長年、反権力・反権威スキャンダル・マガジンとして知られた「噂の真相」の岡留安則編集長のブレーンだった。
岡留さんが「噂の真相」を立ち上げる前に、1975(昭和50)年に創刊した「マスコミ評論」の時代からのつきあいだった。二人は新宿ゴールデン街で情報を交換した。
元「噂の真相」編集者の神林広恵さんは「「初期の芸能のメインは桑原さんで、岡留は桑原さんに全幅の信頼を寄せていました」と話す。
「今はもう桑原さんのような本当の意味での芸能評論家というのはいません。桑原さんは芸能の歴史を江戸時代にまでさかのぼって今の芸能とリンクさせて話が出来る人だった。今起きている事象だけでなく、それが歴史的にどうなのかを解説した。今はそういう人はいなくなりました」。
桑原の全面的バックアップを受けて、「噂の真相」は創刊号(1979(昭和54)年4月号)で、当時の芸能界を牛耳っていたナベプロについての特集記事を掲載した。見出しは「タレント王国ナベプロの実力はいま・・・」。
ナベプロはザ・ピーナッツ、クレージーキャッツで大流行を生み、ザ・ドリフターズやキャンディーズで芸能界を席巻し、史上最大のタレント王国を築いていた。
ナベプロこと渡辺プロダクションの創業は1955(昭和30)年。その後、昭和芸能史に残る膨大なスター歌手を擁し、「しゃぼん玉ホリデー」といったテレビ番組も30本以上、自主製作してきた。
傘下には俳優専門の芸能プロダクション(ぷろだくしょん「道」)を持ち、楽曲の著作権を扱う音楽出版社、テレビ番組制作会社、録音スタジオというグループ会社もある。
グループの総帥たる渡邊晋は早稲田大学在学中から中村八大らと「渡邊晋とシックス・ジョーズ」を結成して活動した。
だが、ジャズミュージシャンとしては生活が苦しく、大学を中退し、芸能プロダクションの草分けともいえる渡邊プロダクションを立ち上げた。そうナベプロこと渡辺プロダクションである。
その渡邊晋は芸能ビジネスを労働集約型から権利ビジネスへおと変えた最初の人間」となったのである(野地秩嘉著「芸能ビジネスを創った男 渡辺プロとその時代」新潮社)。
「渡邊晋が会社を設立する以前、芸能プロやマネージャーはほぼタレント収入に依存していた。タレントが歌や芝居の実演で稼いできた出演料の一部を受け取り、会社の収入としてきたのである。だが、晋はその構造を一変させた」。
だが、そんなナベプロ支配に批判的な声がなかったわけではない。しかし、巨大な存在であるナベプロに反旗を翻すような勇気があるものは業界にはいなかった。
しかし、桑原は、「あざといまでの情報操作やマスコミ操縦と巧みなタレント管理によって“タレント帝国”の名をほしいままにしてきた」ナベプロに対してもひるむことはなかった。
1980(昭和55)年1月号では、山口百恵、森昌子、石川さゆり、片平なぎさ、榊原郁恵といった人気者を多数抱える業界2位のホリプロにも矛先を向け、「ナベプロ追撃を狙うホリプロ戦略のすべて」を執筆した。
ホリプロは1960(昭和35)年、ハワイアンバンドでギターを弾いていた堀威夫が「堀プロダクション」として設立した芸能事務所だ。
舟木一夫、ザ・スパイダース、ザ・ヴィレッジ・シンガーズらが活躍して成長を続けて、1970年代半ばにはナベプロに次ぐ勢力にまでになっていた。
芸人が好きだった桑原
元「アサヒ芸能」編集長の松園光雄さんは「桑さんは芸能評論家じゃないんだな、意味合いが違う。タレント評論家でもなく、とにかくあの人は芸人が好きだった。突拍子もない生き方を面白がり、人と違うのが好きだった」。
「早稲田大学を出て有名なポン引きになった吉村平吉やゴールデン街に入り浸っていた作家の田中小実昌といった連中とよくつるんでいた。戦後の闇市から出てきた人ばかり、エリートではない人たちとつきあっていた」と松園さんは話す。
箱山さんによると、桑原が話の中でよく名前を出していたのは小松方正、小沢昭一と井上ひさしの3人だったそうだ。
小松方正は200本以上の映画に出演。いかつい風貌とドスのきいた声でアクの強いカタキ役として活躍。独特な低い声で語る怪談も人気だった。
小沢昭一は俳優、俳人、漫談師、エッセイストとして活躍していた。ひょうひょうとした独特の語り口と風貌が人気だった。伝統芸能を調べて伝承することにも力を注いだ。
井上ひさしは小説家、劇作家、放送作家。遅筆で有名で、舞台初日にようやく台本が出来上がることもしばしばという異才だった。「難しいことはやさしく。やさしいことは深く」など多くの名言をも残した。
映画「飢餓海峡」「ビルマの竪琴」や「釣りバカ日誌」の社長・スーさん役で知られる名優・三国連太郎とも稲敏は親しくしていた。シナリオをあらかじめ読まされることもあったそうだ。
岡さんはいう「桑さんは僕にいうんです。三国連太郎、あいつに会ったら必ず「カネ貸してくれ」って言ってくるからって」
「何日かして新宿の花園神社で三国さんたちがロケをしていた。ぼくは三国さんに「あの三国さんですよね。私は稲敏さんの弟子なんです」と話しかけると一言「あぁ、じゃあカネ貸せよ」ときた。あとで笑っちゃった」と岡さんは愉快そうに語った。
女にもてる3要素
当時、河野太一(こうのたいち)という「青年石油王」と呼ばれた若手実業家がいた。河野は芸能界のタニマチ的存在で業界事情に通じていたこともあって、どういう経緯かは分からないものの親しくなってネタ元にするようになっていた。
どうやって桑原は様々な人たちに食い込んでネタ元として話を聞き出せたのか。
落語家・月亭可朝のセリフが一つのヒントになるかもしれないー「女にもてる3要素は“こまめ”“やさしさ”“安心感”」。」これは女性に対してだけでなく人間関係全般にいえる法則だろう。
桑原の場合はどうだったのか。可朝のいう3要素を当てはめて行こう。
「やさしさ」はあった。親切で面倒見がよかった。
「安心感」ということでいえば常に実年齢より10才ぐらい上に見られたので落ち着いている、大人だという印象を与え、それが相手に安心感を与えていたのかもしれない。
残る「こまめ」はどうか。記者によっては手紙魔もいるし、会う相手の作品を観たり聴いたりして取材に臨むような努力を怠らない人もいるが、桑原もそうだったのか。
気配りという点で岡さんが次のような話をしてくれた「新宿の「呉竹」という飲み屋に出入りしていたダンプというパンパン女と一緒に3人で何度か飲んだことがある」。
「桑さんは自分が知っている店だとどんどン頼むけど、人と行った店では黙って飲んでいるだけだった。それはたとえパンパン女にでもなるべく払わせないようにという桑さんなりの気配りだったようだ」
「そういうことをする人だった」という。
岡さんは「人間の魅力というのは不思議なところにあったり、感じたりするもので、人はそれに参ってしまうのかも」と話した。
全裸の女性たち
「アサヒ芸能」は1966(昭和41)年10月30日号で、河野太一のリッチぶりを取り上げた。見出しは「9年で億万長者 32歳社長の蓄財の秘密」で、サブ見出しには「ベンツ6台 別荘4カ所 2億円の新婚邸宅」とあった。
その記事によると、河野は昭和9(1934)年3月15日生まれ。中央大学経済学部を卒業後、大阪でガソリン・スタンドの小僧をやった。のちに一念発起して自力で“商売”をはじめる。元手は15万円。あちらから重油を仕入れてこちらに売りつけ、こちらから精製油を仕入れてあちらに売り込む「河野興行株式会社」のスタートだった。
創業以来9年、いまでは年商80億。押しも押されもせぬ青年実業家だ。
河野は東京・麻布の狸穴にマンションを持っていて、部屋の真ん中にはグランドピアノがあって、その上に愛人だった女優の全裸写真のパネルがあったと岡さんは証言する。
岡さんはいう「河野太一の部屋には裸の若い女性が何人もうろうろしていて、桑さんとカメラマンの高野と3人で行ったのですが、桑さんに「岡、やってもいいんだよ、奥にベッドがあるだろう」と言われたんです」
「女性自身」は河野のモテモテぶりにフォーカスして「あのスター女優たちが“牝”に変わる瞬間」という記事を書いたこともあった(1971(昭和46)年9月4日号)。
河野は「50人の芸能人との愛をへて久保菜穂子と結婚するまでの性の軌跡」を「スター女優とかわした爛れきった生活を清算し・・・懺悔の意味」をこめて語ったという触れ込みの記事だった。
「だが、河野は40代の若さで急死してしまいます。その時、桑さんは急いでマンションに駆けつけて、皆が来る前にヌードパネルなどまずいものを片づけたと聞きました」と岡さんは語った。
太平洋テレビジョンの清水社長
桑原の他の大切なネタ元の一つには太平洋テレビジョンの創設者・清水昭がいた。昭和30年代にテレビが普及し始めた頃、同社はアメリカから「ロ―ハイド」といったドラマなど映像作品を輸入して日本のテレビ局に売る仕事をしていた。
桑原と清水の親密な関係から、岡邦行さんが結婚した時にパーティを銀座のど真ん中のクラブでやったが、そのクラブは清水が経営していたところだった。
その日、クラブは休みだったが、ボーイたちは清水に命じられて接待をした。岡さんは「恐縮してしまった」と話した。
また女優も大切なネタ元だったそうだ。「久慈あさみは桑さんとえらく親しくしていて芸能界の裏話を彼女から聞いていた」と奥永さんは証言した。
久慈あさみは元宝塚男役のトップスターで、
市川崑監督の「夜来香」や「ブンガワンソロ」に出演、森繁久彌の「社長シリーズ」に森繁の奥さん役でレギュラー出演したことで知られる。歌手としても活動した。
また、女優の大原麗子や十勝花子、作曲家の小林亜星、ロカビリー歌手の山下敬二郎からも桑原は情報を得ていたという。
(続く)