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ビートルズが愛した女

 日本人によるビートルズ本のダントツのベストは作家・小松成美さんによる「アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女」(幻冬舎文庫)だと思う。アストリットに150時間インタビューしてまとめたというだけあって、ハンブルク時代のビートルたちの素顔が鮮やかに描かれている。
 若かりし頃のジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ピート・ベスト、そしてスチュアート・サトクリフが活き活きと描かれており、「青春群像物語」として読むことが出来る。


 「ザ・ビートルズ人物大事典」(日経BP社)によると、1938年生まれのアストリットは「ビートルズが遠征先のハンブルクで知り合ったドイツ人写真家」で、「ビートルズのトレードマークになる髪型やファッションは彼女からの影響を受けて誕生した」。

アストリットを独り占めしたジョージ
 1960年10月、カイザー・ケラーで演奏していたある晩、恋人アストリットとけんかしたクラウス・フォアマンが店をたまたま訪れた。彼の目や耳に飛び込んできたやたらとワイルドなバンドがビートルズだった。
 瞬く間に魅了されてしまったクラウスは後日、アストリットと友人のユルゲン・フォルマーを誘って再び店を訪れた。
 ビートルたちは、アストリットらのグループのキスと抱擁の「挨拶」に驚かされたという。ジョンがからかっていたにもかかわらず、スチュはクラウスやユルゲンとその挨拶を交わし始めた。すると「ジョージが声が漏れないように慌てて口元に手を当てて、クスクスと笑った。そして突然、そばにいたアストリットに抱きついて両方の頬に音のするほどのキスをした」。
 それからジョージはアストリットを独り占めしてしまい、抱擁とキスの挨拶を続けて、店中を大笑いさせたという。

ぶっきらぼうなジョンの優しさ
 アストリットは彼らの写真を撮らせてほしい申し出た。彼らは浮き足立った。プロの写真家に撮ってもらうということで、ジョージは店中をぴょんぴょんと跳ね回って狂喜したという。ジョンだけは皮肉っぽかったー「どうせ彼女が撮りたいのは薄汚れた労働者なのだろう」と。
 だが、撮影現場でのジョンは違っていた。車から降りたアストリットが鉄製の重い三脚を持っていこうとすると、ジョンはそれを奪って、ジョージ、ポール、スチュ、ピートの後ろを黙って歩きだしたのだという。ジョンの「ぶっきらぼうな優しさ」にアストリットは驚いたと振り返った。
 グループにとっての初めてのフォト・セッションが終わると、アストリットは彼らを自宅に招いて、食事や家庭のぬくもりに飢えていた彼らをあたたかく迎えた。ピート以外がご相伴にあずかった。
 ジョンはアストリットの母ニールサにドイツ語で挨拶。ポールとジョージは子供のようにはしゃいだ。特にジョージは用意してくれた「ご馳走」に誰よりも早く飛びつき、両手でサンドイッチをわしづかみにして食べ始めた。
 ビートルたちにとってアストリットは当時22歳。ジョンより2歳年上でもちろんポール、ジョージらよりも目上の「憧れのお姉さん」のような存在だった。特にスチュは彼女に魅かれて恋人同士になるのだ。
 当時17歳だったジョージは語った「アストリットはすごく素敵だった。レザー・パンツにビートル・ヘアは彼女のおかげなのだよ」。

アストリットを励ましたジョン
 英語が上達していったアストリットはビートルたちのことをよく理解できるようになった。例えば、ジョンがひどい近眼であることが分かったのだ。しかし、当の本人は「眼鏡をかけるくらいなら車にひかれて死んだほうがましだね」と言っていた。アストリットは「格好ばかり気にするジョンが、ジョージよりも幼く見えて、心からかわいいと思っていた」と言った。
 アストリットとスチュは関係を深めていった。しかし、スチュはリバプールで不良に襲われて頭を蹴られた後遺症からひどい頭痛に苦しめられ、ついに1962年4月10日、亡くなってしまう。21歳だった。
 その4月も終わるころ、落ち込むアストリットのもとをジョンが一人で訪ねてきた。ジョンは彼女に言った「いいか、スチュは死んでこの世にいないんだ。 君は決めなくちゃいけない、スチュを追いかけて死ぬのか、ここで立ち直って生きていくのか」。ジョンも親友を失って深い悲しみにあったが、彼女が自分自身で立ち直れるようにと激しい言葉でもって励ましたのだ。

スター・クラブでのライブ音源
 1962年の暮れに、ビートルズは5回目にして最後となるハンブルク巡業を行った。その際にスター・クラブで録音された音源が発売されて、彼らのエネルギッシュな演奏をうかがい知ることができる貴重な資料となった。ジョンにいわせると、「ビートルズ最高のライブはハンブルクだった」。
 さて、アストリットはビートルズの写真を撮影したことで妙な「猜疑心」にさいなまれることになった。「「ビートルズ」というレッテルを貼られている限り、写真家として正当な評価をしてもらえないのではないか」と。
 ナイーブな心しか持てなかったというアストリットは、写真家としてのキャリアはビートルズを撮ったことで終わってしまったと思い込んで、「もう二度とシャッターを押さない」という決意をしたという。
 かつてアストリットが「かわいい」と思ったジョンを襲った悲劇を耳にした彼女は痙攣するこぶしでテーブルを何度もたたいたという。怒りは犯人にではなくジョンに向けられた。「なぜ気づかなかったの。あれほど研ぎ澄まされた感覚を持っていた人なのに」。
 そして彼女の脳裏には「生意気そうな、けれど成功を信じて疑わなかった凛然とした横顔」「スチュを亡くした直後の悲傷を滲ませた瞳」「初めての主演映画の現場で見せた憂鬱なアイドルの笑顔」が浮かんだという。

47歳のポールに見たあの頃の面影
 89年、ポールから連絡があり、コンサートに招待された。会場に行ったアストリットの前には47歳のポールがいた。「アストリットはそこで、まだ幼さが残っていたあの頃のポールの面影を見ていた」。
 95年、アストリットの誕生日に、お祝いのファックスがジョージから届いた。それをきっかけに2人は頻繁に連絡を取り合うようになる。「62年にビートルズがデビューしてから、本当に何もかもが狂ってしまった。ジョージも「どうして、あんなに人を疑ったり、孤独になったりしたんだろう。今思えば、大したことじゃないのにね」って笑っていたわ」。
 スチュ、ジョンに続き、ジョージも2001年に亡くなった。そしてアストリットも彼らのもとに旅立つ日がやってきた。2020年5月12日、ハンブルクで息をひきとった。81歳だった。
 合掌。

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