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週刊誌の時代の男たち⑭
第12章―二番手、三番手に光を
混乱を極める家庭生活とは裏腹に桑原稲敏は仕事の幅をどんどんと広げていった。
芸能記者としてタブーに次々と挑戦し、権威・権力を恐れず果敢に記事を書いていた桑原。テレビ番組にも時々出るようになる。ある時、青島幸男が司会をしていた昼の情報番組で稲敏は芸能の解説をする中で「河原乞食」という言葉を使った。
もちろん悪気はなかったが、放送コードにひっかかったのだろう、番組の最後にアナウンサーがお詫びをしたことがあった。桑原は笑っていたそうだ。
さらに徳間書店の週刊「アサヒ芸能」の対談のホストを引き受けることになった。
「舌好調熱愛対談」は1983(昭和58)年8月18日号から1985(昭和60)年1月31日号までのおよそ1年半、ほぼ毎週掲載された。
基本的に男女一人ずつのゲストが対談した。
異例の顔合わせとしては、元プロボクサーでコメディアンのたこ八郎と実業家にしてタレントの大屋政子の対談があった。
1983(昭和58)年10月27号に登場した。たこ八郎はおそらく稲敏の新宿ゴールデン街人脈だろう。
「「わたし、やっぱり意地で生きてる人間でしょ」と本の印税その他すべてをバレエコンクールにつぎこむマチャ子姫を尻目に、朝から切れ目なく酒を飲むたこ八郎。すべてに対照的なこのコンビ、絶妙な“間”で「たこチャ~ン」「マサコチャ~ン」の歓呼にこたえてきょうも行く行く“”完熟喜劇(シルバーロード)“」。
二人の会話はなかなかかみ合わず、最初からアルコールが入っていたたこ八郎に大屋政子がほぼ一方的に話している感じだった。そして大屋はかいがいしくたこ八郎に「食べなさい」と料理を勧めたりしていた。
他では考えにくい異色の組み合わせだった。
次々と異色の対談を
また、お色気がムンムン漂ってくるような対談もあった。例えば、女優の浅野温子と映画監督の五社英雄の対談(1983(昭和58)年9月15日号)。
「〈女は競ってこそ華、負けて堕ちれば泥〉の宣伝コピーを地でいって、「陽暉楼」で奮闘した浅野温子に、五社監督は目を細める。野性的な光を放つ目だけでなく「考え方も情感もキラキラ輝いている」と、役者より女の色気を感じた五社サン,温子に“いい虫”がついたと、その出会いを徹底追及」。
番外で女同士の対談となった1984(昭和59)年11月10日号。アングラ映画製作に取り組みつつ小説を書く岡江多紀とフリーライターの三浦弘子の顔合わせ記事の見出しは「「女のそれは複雑なのよ 男は打ち上げ花火でしょ」。
映画「白昼夢」で「本番女優」として名をあげていた愛染恭子が、「チンコロ姉ちゃん」などの作品で知られる漫画家の富永一朗と対談したこともあった。
時流にも敏感で、当時の人気深夜テレビ番組「オールナイトフジ」で司会をしていた鳥越マリが登場したことがあった。
冒頭のたこ八郎もそうだが、作家・田中小実昌や俳優でエッセイストの殿山泰司も稲敏の新宿の飲み仲間だった。
たこ八郎は「小茶」(こちゃ)という店でよく飲んでいたという。
稲敏が親しくしていた俳優の小松方正、同じ芸能マスコミからはレポーターの梨本勝が対談に呼ばれたのも桑原ならではの人選だ。
面白い組み合わせとしては盲目のシンガーソングライター長谷川きよしと 「トワ・エ・モア」のボーカル白鳥英美子があった。
他にもカメラマンの加納典明、プロ棋士の林葉直子、プロ野球選手の「ドカベン」こと香川伸行、ボディビルダーの西脇美智子、歌舞伎役者・中村勘九郎、コメディアンの所ジョージ、トランペット奏者・日野皓正、女優の夏木マリといったメンバーも対談に登場した。
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泰子はこの連載を大層喜んでいた。「子どもたちが学校に行けて、みんなが生活出来たのはこのアサ芸の連載のおかげだったようなものよ」。
対談場所はたいてい新橋の中華料理「新橋亭(しんきょうてい)」。家族は余った中華料理をタッパーに入れて家に持ち帰るのを楽しみに待っていたという。
このアサ芸の対談では、大スターでなく二番手三番手で、いつもはスポットライトが当たらないようなタレントをもっぱら取り上げようと努めていたようだ。
元「アサヒ芸能」編集長の松園さんはいう「みんなはちょっと売れた人を取り上げる。しかし、桑さんは光が当たらない人に光を当てようとした」。
「上昇志向の者でなく、忘れられている人です。「下」に向かっていろいろなことを広げていっていたので、芸人や風俗のことをよく知っていた」。
「アサ芸の対談に桑さんがホストとして加わったのは、桑さんでしか引っ張り出せない人がいたからなんです。登場してもらいたい人のリストの端からこうこうっていうことで始めたんです。原稿は桑さんに任せたが、手が入ることはそんなになかった」
アットホームだった徳間
余談だが、「桑さんが徹夜をするとこちらも待っている。「これでいいですね」となると、「じゃあまっちゃん、行きますか」となって飲みに行く。それも込みだった」と松園さんは想い出話を語ってくれた。
確かに当時のアサ芸すなわち徳間書店はアットホームな雰囲気だったという。岡さんはいう「新橋の大徳ビルに徳間は入っていて、4階が編集部だった。4階に原稿を持っていくと、チェックするから下で飲んでいてよという。一時間くらいすると原稿の確認を終えた担当者がやって来て、じゃあ銀座にでも行くかってなることもあった」。
大徳ビルの地下1階には徳間がやっている居酒屋があった。
さらにその下には座敷の飲み屋「田んぼ」という店があって、こちらのほうが「高級」だった。
当時、4ページの原稿を書くと「週刊現代」だと原稿料は16万円くらいで「アサ芸」だとそれが約10万円と安かった。
それでもアサ芸で仕事をしたいと思っていたのは徳間にはアットホームな雰囲気があったからだ、と岡さん。
岡さんがみるところ、そういった徳間の社風は徳間康快氏の人柄によるところが大きかった。
徳間氏は元読売新聞記者で読売新聞主筆の渡辺恒雄氏の先輩にあたった。
徳間氏は読売新聞社を辞めて徳間書店を乗っ取る。「アサヒ芸能新聞」というのが古くからあったが、徳間氏はそれを発展解消し、週刊「アサヒ芸能」にした。
「徳間康快さんというのは独特の人だった。大徳ビルの狭いエレベーターに乗ると「おぉっ」って感じで。徳間さんを慕う人も多くて、アメリカの映画界で彼は心酔している俳優もいたぐらいでした」と岡さんは話す。
今はもう大徳ビルはなく、徳間書店も違う場所に引っ越してしまった。
トップはシャープさを失う?
桑原の二番手、三番手志向に話を戻すと、「女性自身」などで同僚だった箱山さんが興味深い話をしてくれた。
「かつて、私は公的機関のタブロイド紙で「忘れえぬ人」という連載コラムを担当していたことがあります。桑原さんにもコメントをお願いしたことがあるのですが、そのとき桑原さんが選んだのは、昭和の名人と呼ばれた落語家の古今亭志ん生でした」
「超売れっ子になっても貧乏暮らしで長屋住まい。酔いがさめないまま高座にあがり、途中で眠ってしまった。気に入れなければ高座を平気ですっぽかす、などなど多くのエピソードを残す志ん生の天衣無縫な生き方。桑原さんはどこかで共感していたのでは、と思います。なぜ忘れられない人なのか。その理由については記憶していませんが、伸び伸びと思うままに行動した生き方にどこか惹かれるものがあったのではないでしょうか」
「桑原さん自身がナンバー2志向があったのではとも思うことがあります。トップではなく、かといってビリでもなく、2番手、3番手で、それなりの実力を持ちながら、あえて目立つポジションを選ばず、2番手に甘んじて、自由に伸び伸びと仕事やプライベートを楽しむ。そんな考え方です」
「あるとき桑原さんから「トップに立つと、その地位を守ろうとして、かつてのシャープさは消え、面白みのない人間になってしまう」的なことを聞いた記憶もあります。たしかに、たたき上げから一代で成功を収めた人物が頂点に立ってみると意外に魅力がなくなっていた、ということは取材のなかで私たちも何度か感じていました」
「2番手、3番手の人たちは芸能界にかぎらず取材しておもしろい。だから記事も魅力的になる。スポットをあてたのも自然の流れかもしれない」。
「2番手、3番手は人間的に魅力的であったばかりでなく、裏事情に詳しく、さまざまな形でニュースソースになる、ということもあったと思います」。
「梶山軍団」
桑原は、「週刊文春」記者だった花田さんとしばしば顔を合わせている時期があった。
花田さんは元観光新聞にいたことのある佐々木弘というライターに桑原を紹介された。
佐々木弘という人は「自分では書かないけれど取材をよくする人だった。怪文書についての本を2冊書いた。文春専属の記者だった。梶山軍団のあとくらいに来た人だった。佐々木は芸能界やヤクザなどの裏社会に詳しい人で、文春にはそういう人はあまりいなかった。だから文春は「週刊実話」とかにはかなわなかった。佐々木さんは最終的には「疑惑の銃弾」をやりました。
梶山軍団の梶山とは梶山季之のこと。天才ルポライターの名をほしいままにした人だ。
大下英治著「最後の無頼派作家 梶山季之」によると、梶山が「週刊明星」のアンカーマンの頃、週刊誌最大の存在理由をつくった皇太子妃のスクープに関わった。
総動員で臨んでいた取材だったが、正田美智子さんのことは、1958(昭和33)年11月初旬に「ニューズウィーク」に「日本のプリンスは、ミラーズ・ドウター(粉屋のお嬢さん)と結婚する」と報じられた。
それによって「週刊明星」はためらうことなく、11月23日号でトップ記事にした。
梶山はその後「週刊文春」を経て、作家となる。
週刊誌記事では本当のこと、真実を書けないから、むしろフィクションの小説のほうが真実に迫れるということだったようだ。
小豆相場について書いた「赤いダイヤ」や自動車メーカーを舞台に暗躍する産業スパイを描いた「黒の試走車」などを残した。
(続く)