ジョンとエルトンの仲!?
【スピリチュアル・ビートルズ】エルトン・ジョンがジョン・レノンと初めて会ったのは、ジョンがオノ・ヨーコと別居してロサンゼルスでいわゆる「失われた週末」を送っている1973年だった。
二人はアップルレコ―ドの米国担当部長だったトニー・キングを通じて知り合ったという。
エルトンが、ハリウッドにあったキャピトル・レコードの中にあるトニーの新しいオフィスを訪ねると、何と英女王エリザベス2世の女装をしたトニーがジョンと踊っていた。
エルトンは自伝「Me エルトン・ジョン自伝」(ヤマハミュージックエンタテインメント)で振り返って言う。
「彼(ジョン)のことはすぐに気に入った。元ビートルズで、したがって僕のアイドルの一人だという理由だけではない。あろうことか、女王の紛争をした男とくるくる踊って自分のニューアルバム(『マインド・ゲームス』)を宣伝するのがいいアイデアだと考えている元ビートルズだったからだ」。
直感的に親しくなれると思ったエルトン。そして話をしてみると、まるで生まれた時からジョンを知っているような気がしたという。それから、エルトンがアメリカにいる時はいつも二人で長い時間を過ごすようになった。その頃はジョンが酒浸りの生活を送っていた時期だ。
エルトンが聞いたジョンの「武勇伝」の一つが、フィル・スペクターと組んでやっていた『ロックン・ロール』のセッションが収拾不能になったことに怒り狂ったジョンが、レコード・プロデューサーのルー・アドラーの家をめちゃくちゃに壊したことだ。
エルトンもジョンと一緒に大量のドラッグをやって外出し、狂乱の夜を何度も過ごした。ある晩は、ドクター・ジョンがショーをするというのでライブハウス「トルバドール」にエルトンとジョンは出かけた。
ドクター・ジョンは「ステージに上がってジャムろうぜ」とジョンを誘った。泥酔していたジョンはステージに上がったものの、最後には両ひじでオルガンを弾く始末だったという。
ジョンをステージから降ろすのはエルトンの役目だった。
また、ジョンの前妻シンシアと息子ジュリアンが英国からニューヨークにジョンに会いに行く際に、彼らの船旅に同行してくれないかとエルトンとトニー・キングがジョンに頼まれることもあったという。
蒸気船フランス号での旅に、エルトンらは同行した。
ジョンのアルバム『心の壁、愛の橋』にエルトンが参加するきっかけはジョンの一本の電話だったという。エルトンがニューヨークの55番街の名門ホテル「ピエール」に滞在している時、上の階のスイートに泊まっていたジョンから内線電話がかかってきた。
そして2曲ー「予期せぬ出来事(Surprise, Surprise)」と「真夜中を突っ走れ(Whatever gets you thru the night)」で演奏してほしいとジョンは言い出したのだという。
ここからは有名な話だ。
エルトンが「真夜中を突っ走れ」はナンバーワン・ヒットになると思ったが、ジョンは懐疑的だった。
ポールやジョージやリンゴのシングルは何枚も1位になったけれど、「俺のは一度も1位になってない」と。
そこでエルトンは賭けをしようと持ち掛けたーもしこの曲がナンバーワンになったら自分(エルトン)のコンサートで共演することにしよう、と。エルトンは「ただ、ジョンがライブで演奏するのを見たかったのだ」という。
そして74年11月28日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでのエルトンのコンサートで二人は共演することになった。
ジョンは「ヨーコが絶対に来ないようにしてくれ」という条件をつけたとエルトンはいう。彼女の前では緊張しすぎると思ったのかもしれない。二人はまだ別居中だった。
だが、ヨーコは現れた。
ショーの前に彼女はジョンにクチナシの花を一輪贈り、ジョンはステージにいる間、それをボタンホールに挿していた。
ジョンは久しぶりのステージを前に極度の緊張に襲われてしまい、吐いてしまったという。
エルトンの紹介でジョンがステージに上がると大歓声が沸き起こった。
ジョンは「真夜中を突っ走れ」、ジョンのビートルズ時代の作品でエルトンがカバーした「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」と、ポールが書いたビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」の3曲を披露した。
3曲目を演奏する前にジョンはジョークを飛ばした。「これから歌うのは、ぼくが昔捨てられた婚約者ポールのナンバーです」と。
一旦は楽屋に引っ込んだが、アンコールで再びステージに戻って来たジョンは、「あばずれさんのお帰り(The bitch is back)」でエルトンの親友で作詞家のバーニー・トーピンと二人でタンバリンを叩いた。
ショーの後でヨーコはバックステージを訪ねて来た。電話ではしばしば話をしていたジョンとヨーコだったが、実際に顔を合わせるのは一年ぶりのことだった。
結果的にこの再会が二人がよりを戻すきっかけになった。
エルトンは、ジョンとヨーコが暮らすダコタ・アパートにも遊びに行っていた。ある時など、ジョンへのプレゼントとして「正時になると鳩の代わりに大きなペニスが飛び出す鳩時計」を贈ったのだという。
エルトンは「あらゆるものを持っている男にふさわしいプレゼント」だと思った。ジョンがユーモアを解することをもちろん計算に入れていた。
ダコタには値段もつけられないような貴重な美術品や骨董品があふれていた。エルトンは彼らの曲「イマジン」を変え歌にして皮肉ったカードを送ったことがある。「想像してごらん、6つのアパートメントを 難しいことじゃない、一つは皮のコートであふれてる、一つは靴であふれてる」という文句だったという。
エルトンはジョンの死を豪メルボルン空港で知った。エルトンは耳を疑うと同時に、凶弾を浴びるという残虐な殺され方をしたことを「受け入れがたかった」。
エルトンはバーニー・トーピン作詞による追悼曲「エンプティ・ガーデン(ヘイ・ヘイ・ジョニー)」を82年に発表した。
その頃、エルトンはヨーコから電話をもらった。
ヨーコはジョンが遺した未完成の曲のテープを完成させてほしいと頼んだという。エルトンは「まだその時期ではない」と思った。
結局、一部の曲はそのままの形で『ミルク・アンド・ハニー』(84)で世に出たのだった。