NOハンブルクNOビートルズ
ジョン・レノンが成功するまでを描いたドキュメンタリー作品「ジョン・レノン 音楽で世界を変えた男の真実(Looking for Lennon)」のロジャー・アプルトン監督の新作がやって来る。
ビートルズのハンブルク時代にフォーカスした「NOハンブルク NOビートルズ」だ。つまり、ハンブルクがなかったらビートルズはなかったと。
2024年12月6日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、池袋シネマ・ロサ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開される。
およそ60分の映画だがテンポよく、当時のロックンロール・ナンバーをバックに、アーカイブ映像やクラウス・フォアマンの絵、そして多くの関係者の証言によって、ビートルズの最初のハンブルク訪問からイギリスでの成功までが描かれていく、興味深いドキュメンタリーになっている。
ジョンの有名な言葉がある「僕らはリバプールで生まれ、ハンブルクで育った」。その通り、ビートルズはハンブルクで毎晩8時間もの演奏を連夜続けることで腕を磨いて、後にはばたく下地を作った。
ジョージ・ハリスンも「僕らのライブパフォーマンスが最高だったのはハンブルクだった」と語っていたくらいだ。
音楽面もそうだが、最初にハンブルクを訪れた時、最年少のジョージは17才だったし、みな20歳そこそこの若者だった。世界一の赤線地帯に送り込まれた若い青年たちは当然のごとく、「そちらの勉強」もする。
映画には描かれていないが、ジョージの初体験は他のメンバーたちがいるところで、終わると皆から拍手が起こったそうだ。
戦火に遭った2つの港町
映画は戦争中のハンブルクから始まる。連合国から激しい空爆を加えられたハンブルク。対岸のイギリスでも、ビートルズの出身地である港町リバプールはドイツの空爆に襲われていた。
ジョンはそのさなかに生まれたし、戦争が終わり徴兵制度がなくならなければビートルズは誕生しなかった。なぜなら、メンバーたちは徴兵されてしまい、ロックバンドどころではなかったからだ。
そういう意味でもビートルズというバンドは戦争と平和に深く関わっている出自を持ったグループであった。
最初のハンブルク訪問は、1960年8月15日にジャカランダの前での待ち合わせから始まる。5人のビートルたちはマイクロバスでハンブルクに向かったのだ。最初に演奏したのはストリップクラブの「インドラ」で、ストリップの幕間での演奏だった。
1,2週間もすると混雑するようになり、騒音でライブが禁止されてしまう。そこで彼らは「カイザーケラー」へ移る。
1960年のライブ告知ポスターが出てくるが、ビートルズは二番手だ。一番手はリンゴ・スターがいたロリーストームスだった。将来の成功へと続く運命の糸はすでに複雑に絡み合っていたのだ。
映画ではもちろんユルゲン・フォルマ―、クラウスそしてアストリット・キルヘアら実存主義者(イグジス)のドイツ人らとの出会いも語られる。
トニー・シェリダンが君臨していた「トップテン・クラブ」。トニー付きのバンドとして演奏を重ねたビートルズだった。そして、「マイボニー」などトニーのバックバンドとしてのレコーディング。
今や伝説となっているが、「マイボニー」をのちのマネージャー、ブライアン・エプスタインのレコード店NEMSに買い求めにきた客がいたことから、ブライアンがビートルズのことを知るのである。
ここでも運命にハンブルクが関わっているのが興味深い。
そして「スタークラブ」で演奏するようになる。
1962年4月、ビートルズの4回目のハンブルク訪問。すでにビートルズを離れドイツで暮らしていたスチュアート・サトクリフと恋人のアストリットが二人で出迎えてくれると思っていたが、アストリット一人だった。
脳出血でスチュは亡くなっていた。ピート・ベストは泣き、ポール・マッカートニーはアストリットを抱きしめ、ジョンは狂ったように笑い続けた。
”イギリスの侵略拠点”としてのハンブルク
スタークラブではリトル・リチャード、チャック・ベリーら多くのロックンローラーたちが演奏していた。
最初はアメリカからロックバンドを招くとコストがかかるからという理由でイギリスからバンドを招いていたハンブルクだが、その頃には「イギリスの侵略拠点」とまで言われるようになっていた。
1962年夏、ビートルズのドラマーがピートからリンゴ・スターに変わる。ピートのファンたちはキャバーンの前で叫んでいたそうだ。「ピート、フォーエバー。リンゴ、ネバー」と。
同年11月、12月、ビートルズは再びハンブルクへ。最後のショーは同年の大みそかに行われた。この時のライブ録音はのちにレコード発売され、貴重なハンブルク時代の記録となっている。
最後のハンブルクでのパフォーマンスからわずか11日後に「プリーズ・プリーズ・ミー」が発売されて大ヒット、彼らはイギリスでのスターダムにのし上がっていくのである。
ビートルズがハンブルクを育てたのではなく、ハンブルクがビートルズを育てたのだというが、まさにそのストーリーを小気味よく語ってくれる素敵なドキュメンタリー作品だ。
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