前田忠明と桑原稲敏
わずかばかりだが、2022年9月に亡くなった芸能レポーター・前田忠明さんについて書きたいと思う。「ちゅうめい」さんと呼んでいた。
顔を見れば、みなさんもテレビでおなじみの有名人だが、前田さんがまだ明治大学の学生だった頃から父・稲敏(いえとし)とは友人関係だった。
若かりし頃の前田さん、そしていくつか年上だった父・稲敏も相当に悪かったらしい。田舎から出てきた父、そして前田さんも貧乏学生だった。
下宿で飲もうにも酒もなければ、つまみもない。そこで前田さんの出番だ。父の下宿に行く途中のキャベツ畑から一個拝借してくるのだ。
お酒はどうするのだろうか?前田さんは酒屋の娘さんと親しくなって、口八丁手八丁でお酒をただで届けさせていたのだ。
金属製の洗面器で盗んだキャベツを煮て、塩やしょうゆで味つけすることで、つまみが出来上がり。そして届いたお酒で一杯というわけだ。
父・稲敏は卒業後に、週刊誌「女性自身」の芸能記者となる。いわゆる「トップ屋」だった。芸能関係のニュースを追った。
ある時、裏社会のお偉いさんと女優さんとのおつきあいをすっぱ抜いたのだという。すると、自宅に無言電話がかかってくるようになった。
父は笑っていたという。「あいつらは俺と同じ生活時間帯だって分かるね。だって電話がかかってくるのが夕方から朝までだからな」。
さて、前田さんが「女性自身」の記者になるのは、それからだいぶ経ってからだったが、おそらくは父・稲敏も関係していたのだろう。
父はまもなくフリーになったが、芸能ニュースを追い続けた。評論家活動をしていて、自宅で週刊誌からの電話コメントの依頼に応えていた。芸能ニュース、特に訃報が飛び込んでくれば、深夜早朝構わずだった。
父・稲敏の周りにはライターたちが集まり、「桑原組」といわれる仕事や遊びをともにする集団を作っていた。前田さんは加わっていなかった。
前田さんは1980年頃、フジテレビ専属の芸能レポーターになります。そして梨元勝さんなどと並ぶ、売れっ子レポーターとなります。
80年代に前田さんは週刊宝石にコラムを書いたことがあります。芸能人の裏話をたくさん知っている前田さんなので期待されました。
しかし、そのコラムの出来は芳しいとはいえなかった。振り返ってみると、父が前田さんに芸能レポーターを勧めた理由の一つは「前田さんはペンよりもテレビの人だとの判断」があったそうだ。
父・稲敏は1993年12月29日に亡くなります。享年54。髄膜脳炎(ずいまくのうえん)といって、風邪をこじらせて、そのばい菌が髄液から脳に回ってしまい死に至ったというのです。
年が明けてから青山葬儀場でお別れの会が開かれました。とても寒い日でした。前田さんには友人代表として弔辞をよんでいただきました。
これがよかった。今でも思い出します。亡き父に語りかけるように、「いつかあの世で、するめをつまみに辛口の酒を一緒に飲もうじゃないか」と。
その後、私は前田さんと一回お目にかかりました。ちょうど宇多田ヒカルがデビューした後で「オートマティック」が大ヒットしていました。
前田さんに話を聞くと、「宇多田ヒカルの母親・藤圭子の怨念だね。当時彼女に辛く当たった芸能界に対する怨念だね」と言いました。
そして宇多田ヒカルが露出を避けていることについては「東芝EMIのやり方だよ。ユーミンもそうだし、矢沢の永ちゃんもそうでしょう」と。
前田さんが亡くなったことが分かったのは2022年12月のことでした。同年9月にこの世を去っていたのですが、元の職場であるフジテレビの方々も知らなかったという。遺族の意向だったらしい。
前田さんと一足先にあの世にいった父・稲敏。いまごろ、二人は天国で辛口の冷や酒で杯を交わしているのではないか。
二人とも売れっ子になったので、つまみはもうキャベツでなく、きっと、するめやエイひれに「昇格」しているに違いない。