ジョージア映画「希望の樹」
20世紀初頭、ロシア革命前夜の激動の時代、東ジョージア、カヘティ地方の小さな農村の人々の様子を、村民それぞれの個性が豊かな姿を描くことによって展開してゆく映画が「希望の樹」(テンギス・アブラゼ監督/1976年/カラー/107分)だ。
途中から登場するのが美しい娘マリタと青年ケディアで、この二人の若者のかなわぬ恋がもうひとつの軸として進んでゆく。
2024年9月18日(水)、渋谷のユーロスペースで「祈り 三部作」の二作目である「希望の樹」を鑑賞した。
原作は作家ギオルギ・レオニゼが1962年に発表した21篇の短編集。アブラゼ監督は早くから映画化を目指していた。
映画は赤いケシの花が一面に咲いている草原で白い馬が息絶えようとしている場面から始まる。涙を流す馬を楽にしてやる。
ここからは多彩な村人たちが次々と登場してゆく。
因習の中に生きる長老ツィツイコレ、過去の栄光に固執する学者ブンブラ、新しい時代を待ち望むアナーキストのイオラム、奇跡を求める夢想家エリオズ、想像の恋に生きる女プパラ、豊満に肉体で男を誘惑するナルギザ、欲望を捨てきれない神父オフロヒネなどまさに多彩。
ユーモアを交えつつ描かれる村の人間模様。
ある日、村にいる祖母のもとにやって来たマリタ。その美しさに一目ぼれしてしまうケディアだった。
ケディアだけではない。村人たちもマリタに魅かれて、「マリア様」とか「聖ニノ」だとか呼ぶのである。ちなみに聖ニノとはジョージアをキリスト教化した人物だ。ジョージアは世界で一番古いキリスト教国の一つだ。
ジョージアらしい風景をバックに物語は進む。丘の上にある古い石造りの小さな教会。これは今でもこの国のあちらこちらで見かけることができる。
また、時代を感じさせるシーンもいくつか出てくる。地面に耳をあてて革命がやって来る音を聞こうとする村の人たち。そう、この映画はまさにロシア革命(1917年)前夜の激動の時代にあった村を描いているのだ。
しかも、革命を賛美して待っているだけではない。「革命というのは一緒に略奪と殺戮を連れてくる」との冷静な見方も出てくる。
そしてジョージア民族の誇りを訴えるシーンも心に残った。この映画は1976年の作品で、その時はもちろん、ジョージア(グルジア)はソ連邦を構成する一共和国だった。そして70年代に「ジョージア問題」が蒸し返されていたこととも無関係ではない。
はらだたけひで著「グルジア映画への旅」によると、1972年にジョージア共和国第一書記についたシェワルナゼ(のちにソ連の外務大臣)が中央のモスクワの意向を代弁するかのように「大ロシア民族主義」を唱えた。
これにはジョージアの人々が猛反発した。高まったジョージアの民族意識がこの映画の底流には流れているように感じた。
そしてマリタとケディアの恋だが、マリタの父親らはケディアをいいやつだと思いながらも貧乏なので結婚相手としては認めず、家柄のいいシェテのもとへと嫁に出した。マリタの気持ちなどおかまいなく。
ケディアは姿を消す。
ある時、村に戻ったケディアはマリタを訪ねる。再会を喜ぶ二人。しかし、それをのぞき見している者がいた。
マリタは村中を引き回された末、亡くなる。雪の光景の中でだ。
最後は春が再び巡り来て、赤いケシの花のシーンとなる。空き家となったマリタの家。一本のざくろの木がある。
ラストシーンのナレーションはこうだー「ほこりとごみにまみれた所にこれほど美しい花が咲くとは。美しさはどこから来るのだろう。どこへ行くのか、どこへ消えるのか、しばし姿を隠すだけなのか」。