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泉麻人、タブ純が語る青春歌謡

 作家でコラムニストの泉麻人さんと昭和歌謡漫談のタブレット純さんが1時間半にわたって青春歌謡について語り尽くした。2025年2月23日(日)によみうりカルチャー荻窪で開かれた講座でだ。
 2人の顔合わせは6回目となった。
 三田明の「美しい十代」のイントロが流れ始めるとタブ純さんが教室に入ってきて歌い始めたが、みなセーラー服姿に沸いた。
 ドン・キホーテで買ったセクシー系。ただ、タブ純さんはスカートの中が見えるのかを気にして一言「ブルマーをはいています」。
 タブ純さんは「今日は青春歌謡ということで、60年前の歌なんですけど、どうですか、皆さん」と呼びかけてスタート。
 今日登場する泉さんは青春歌謡をオンタイムで聴いてきた世代である一方、タブ純さんは追っかけで今勉強中だという。
 タブ純さんの青春歌謡の本が来月にも発売される見込みだ。
 ここで泉麻人さんが登場した。
 泉さん「「美しい十代」で何でその格好なの?」
 タブ純「美しい五十代です」。
 泉さん「4月で69です。ちょうど「美しい十代」や「高校三年生」は1963年、6歳で小学校にあがった年です」。


 泉さんは続けた「うちのお父さんは高校の先生だったけど、うちに「花のステージ」っていう舟木一夫さんの最初のレコードがあったんです。家族で一緒に聞くようになってファンになりました」。
 御三家といえば舟木一夫、橋幸夫そして西郷輝彦。
 「橋さんは舟木さんより2,3年早くデビューして、すでに昭和36年に「潮来傘」のヒットがありました」と泉さん。
 タブ純さんは「本来、三田明さんが御三家だったと思うけど、同じ吉田正先生の門下でビクターってことでこの3人になったようです」という。
 ここでテレビの歌番組の話、そして白黒テレビからカラーテレビに移り変わっていった時代の話を二人でした。
 「青春歌謡」っていう言い方はあとづけで言われるようになったとタブ純さん。「当時は学園ソングって言っていましたね」。
 泉さん「舟木一夫さんがその路線を築いたんです」。
 話は映画館で映画の合間にかかるニュース映画に飛んだ。
 ここでタブ純さんがギターとハーモニカで舟木一夫の「高校三年生」。


 泉さんはタブ純さんの姿をしげしげとみて「昔、新宿のコマ劇場の裏にこういう格好のおばさんがいました」と一言。
 我に返って「森昌子の「中学三年生」はアンサーソングですね」。
 タブ純さんが持ってきたレコード、扇ひろ子の「新宿ゴールデン街」をかけた。まずはシングル盤で普通の45回転で、続けて33回転でかけた。
 扇さんの語りがゲイバーのママになった。みな大笑いだった。
 泉さんは「扇さんは「新宿ブルース」など新宿のイメージがわりと強いです。昭和30年代まではゴールデン街は花園街っていう言い方で、いわゆる青線だったんです。一階が飲み屋で二階で商売みたいな」と話した。
 気を取り直して(笑)、次は三田明の「ごめんねチコちゃん」。
 「三田さんは「美しい十代」でデビューして2年目。B面が吉永小百合でした」と泉さんが話すと、タブ純さんは「三島由紀夫さんが「もし天皇陛下が三田明さんだったら俺はいつでも死ねるよ」と言ったそうです」との逸話を紹介した。


 ここから話がいろいろと展開していき、エレキ歌謡の話題になった。
 ここでかけたのは橋幸夫の「恋をするなら」。
 タブ純さん「昭和39年って節目の年でした」。
 泉さん「日本でもビートルズが発売されたり、リバプールビートルズっていうのが来たんです」。
 タブ純さん「そういう時代とGS(グループサウンズ)がシンクロしていて、エレキを使った歌謡が出てきました」。
 そして紹介されたのは田村正和の「空いっぱいの涙」だ。
 タブ純さんが解説した「田村さんは松竹の専属スターになりました。後から入って来たのが藤岡弘さんです」。
 タブ純さんが持参したレコードから松山まさるの「母と子の道」を紹介した。松山まさるとのは後の五木ひろしでこの頃は全く売れなかった。


 叶修二の「素敵なやつ」が続いた。
 タブ純さんは叶さんの故郷新潟を訪ねたことがある。
 「生家は学習塾で、自腹で訪ねたんです。遠藤実記念館荷も行ったんですけど、臨時休業でした」。
 牧宏次の「波止場のロック」でこれは浜啓介による作品だ。
 泉さんが「青春歌謡って地方のローカル線が浮かぶようなイメージだったんですが、昭和40年頃から車、バイクとかだいたいエンジン音をエレキで表現したんですよね」と話した。
 ここで美樹克彦の「6番のロック」。


 星野哲郎さんが銀座のクラブでお気に入りが6番だったのでこの曲名になったとか。泉さんは「ロックはオンザロックのロックかも」と。
 また、タブ純さんは「「花はおそかった」の途中で美樹さんが「かおるちゃーん」って叫ぶけど、もともとは「バカヤロー」だった」と説明した。
 「でもバカヤローとは不謹慎だということでかおるちゃんになったそうです。でもそうなったらそうなったで苦情が殺到してもとのバカヤローに戻したんです」とタブ純さんは続けた。
 「かおるちゃん」と叫んでいるバージョンのレコードのほうが今では貴重なのではないかと二人は話した。
 舟木一夫に戻って「あゝ青春の胸の内は」。
 森友学園か関連の中学だかが勝手にこの歌を校歌に使っていたそうだ。
 タブ純さんは舟木さんが70年代どん底を経験したことを話した。その時出たのが「日曜日の赤いバラ 三本のローソク」だったと紹介した。
 「最終的に舟木さんは俺には青春歌謡があるってことで歌うことで復活するんです。舟木さんはファンという言葉が嫌いでフナトモって言っています。対等にってことです。ぼくもタブトモにしようかな」とタブ純さん。
 最後に二人で橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」で一時間半の濃厚な過去がつまったトークイベントは幕を閉じた。


 

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