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マンガの聖地「トキワ荘」

 手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら、後に昭和を代表するマンガ家となる面々が青春の日々を送った「トキワ荘」。2階建て木造モルタルのアパートには部屋が20余り、そこはまさにマンガの学校だった。
 1982年に惜しまれつつ、老朽化のために解体されたが、地元住民らの熱意によって2020年、トキワ荘マンガミュージアムとして生まれ変わった。そのマンガの聖地を2023年12月20日(水)に訪ねた。
 西武池袋線の東長崎駅から徒歩で20分ほど、公園の一角にそのマンガミュージアム(東京都豊島区南長崎3-9-22南長崎花咲公園内)がある。外装も内装もマンガ家たちが切磋琢磨した当時を忠実に再現している。
 風呂はなく、マンガ家たちは近くにあった銭湯に通った。トイレも共用。個室が2室、小便器が2か所。汲み取り式で、用を足すと2階から土管を通って下に落ちる仕組みだった。

トイレ 


 1階と2階にそれぞれ共同炊事場があった。ガスコンロや鍋などは各自が用意し、ガスを使う場合は料金を支払う必要があった。炊事場は洗面台としても使われ、洗濯場ともなった。

2階の共用炊事場

 トキワ荘は1952(昭和27)年12月6日、豊島区椎名町5丁目2253番地に棟上げされた。当時としては普通の木造モルタルのアパートだった。2階建ての22部屋。各部屋の入口は板敷き、押し入れ付きの四畳半だった。ちなみに家賃と礼金は3千円、敷金は3万円だった。

2階の廊下 


 当時の物価を見ると、卵一個が25円、豆腐一丁10円、ラーメン40円、銭湯15円、コーヒー50円、映画150円、ハガキ5円、公衆電話10円、トリスウイスキーは120円、LPレコードが2100円だった。
 さて、2階の部屋にマンガ家たちは居を構えた。1953(昭和28)年、手塚治虫が、雑誌「漫画少年」を発行していた学童社の紹介でトキワ荘に入居した。手塚が並木ハウスに引っ越すので、後に入らないかと誘われてきたのが藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐだった。

手塚治虫が住み、にちに藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐが住んだ14号室


 石ノ森章太郎は1956(昭和31)年5月、赤塚不二夫は同年8月にトキワ荘に住み始めた。二人は時期は違うものの1961(昭和36)年までここに住んだ。タイプは違うが石ノ森と赤塚は友情を育んだという。
 赤塚はのちにこう書いた「石森(のちに石ノ森)の部屋が仕事場なら、ボクの部屋は茶の間だった。ボクの母に食事代を支払って(石ノ森は)食事のめんどうをみてもらうようになった」。
 その他の住人には水野英子、寺田ヒロオ、鈴木伸一、よこたとくお、山内ジョージといった面々がいた。ゆかりのマンガ家には園山俊二、つのだじろう、永田竹丸、長谷邦夫、つげ義春、ちばてつおなどがいた。

水野英子がいた19号室 
鈴木伸一、森安なおや、よこたとくおの部屋だった20号室 
最盛期の部屋割り

 昭和30年頃には、全長500メートルを超える商店街には多種多様な200軒以上の店舗が立ち並んで、大いに賑わっていた。

 開館時間は午前10時から午後6時(入館は午後5時半まで)。休館日は月曜日(祝日の場合は翌平日)。12月29日(金)~1月3日(水)。特別企画展期間中は全館有料ー大人500円、小中学生100円。
 

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