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ウィングスはなぜ解散した?

 ポール・マッカートニーがビートルズ脱退宣言からわずか一年あまりで発表した新バンド、ウィングスの結成。
 1971年夏の発足時のラインアップはポール、妻リンダ、デニー・レイン、ドラムにデニー・シーウェルだった。
 ポールがのちに振りかえるように、ウィングスはビートルズの名声に頼った無難なスタートを切ろうと思えば出来たのだろうが、選択したのはビートルズナンバーを封印しつつ英国内の大学などをゲリラ的に回ることだった。 
 ウィングスのデビューアルバム『ワイルド・ライフ』は芳しい評価を得られたとはいえなかったが、続く『レッド・ローズ・スピードウェイ』(73)からは全米1位「マイ・ラブ」が生まれる。
 デニー・シーウェル脱退など問題含みの中で制作された『バンド・オン・ザ・ラン』(73)でポールは逆境に強いところ見せつけ、アルバムはベストセラーかつロングセラーとなった。
 『ヴィーナス・アンド・マース』(75)、『スピード・オブ・サウンド』(76)も大ヒット。満を持して臨んだ75-76年の北米ツアーはおよそ60万人を動員し大成功を収めた。
 『ロンドン・タウン』(78)に続く『バック・トゥ・ジ・エッグ』(79)はパンク台頭にぶつけた意欲作だったが、発表された時には世の中はもはやディスコ一色になってしまっていた。
 一種の大成功の後の「燃え尽き症候群」だったウィングスが起死回生をかけていたのが80年1月の日本公演だった。
 しかし、成田空港に降り立ったポールが大麻不法所持で現行犯逮捕され、予定されていた日本ツアーは中止になった。

用意されていた日本公演のパンフレット


 だが、ここでウィングスに終止符が打たれたわけではなかった。
 ポールはウィングスを自分のプロジェクトのために「利用」すべく度々召集をかける。そしてウィングスの存続が本心でなかったように見えたポールは、プロデューサーのジョージ・マーティン登場を「言い訳」にしてバンド解散を仕掛けていったふしがあるという見方がある。
 こうした分析はポール・マッカートニー研究会が2022年に開いたトークイベントでNobuさんと梅市椎策さんによって紹介された。
 日本で逮捕拘留されたポール。他のメンバーはどうしていたのか。
 ポールの右腕だったデニー・レインはフランスに飛び、自身のソロアルバム(のちの『ジャパニーズ・ティアーズ』)の契約をする。
 ポールとしては面白くなかったのではないか。
 1980年3月下旬に行われたシングル「カミングアップ」のプロモーションビデオ撮影ではついにポールは「禁じ手」を使う。
 アイドル時代のビートルズに自らが扮するというパロディーを盛り込んだのだ。ウィングスを前に進ませるために、歯を食いしばってビートルズを禁じてきたポールがビートルズに「回帰」するとウィングスは影が薄くなる。

「カミングアップ」のプロモーションビデオより


 さて、ツアーが出来なくなったウィングスだが、80年6月からデニー・レインとウィングス最後のドラマーとなるスティーブ・ホリーがツアーに出た。デニーの妻ジョジョがボーカルで「カム・トゥゲザー」などを歌った。
 彼らのツアーの途中だったが、ポールはそれにもかかわらず、7月初めにウィングスに半年ぶりに召集をかけたのだ。
 英ケント州テンターデンのフィンチデン・マナーという、古いコンサートホールに集まり、数日間リハーサルを行ったという。
 まとまりがつかず延々と続くセッションに、スティーブ・ホリーは「目の前でバンドが壊れていくような、そんな感じがした」と話した。
 8月にはポールはスコットランドで新曲作りに励む。「エボニー・アンド・アイボリー」、「ワンダーラスト」「アベレージ・パーソン」といった楽曲である。ポールはジョージ・マーティンにこのテープを聞かせたが、彼の評価は厳しかったようだ。
 ジョージ・マーティンとEMIとの間で次のような会話が交わされたというー「ポールはいったい何曲ぐらい持っているんだね」と社長がジョージに訊いた。答えは「13曲」、そして「で、そのうち使えそうなのは?」「3曲だけ」「冗談じゃない、どこかに閉じ込めてもっと書かせるんだ」(クリス・サルウィッチ著「ポール・マッカートニー」音楽之友社)。
 気分を変えるためか、10月初め、ポールは『コールド・カッツ』として知られる未発表曲集の作業のためにウィングスをイースト・サセックス州のパーク・ゲート・スタジオに集めた。
 続けて、ケント州テンターデンのフィンチデン・マナーに場所を移し、のちの『タッグ・オブ・ウォー』(82)、『パイプス・オブ・ピース』(83)、「ヤァ!ブロードストリート」(84)に収録される曲のいわばウィングス版の録音が進められた。
 ウィングス最後のギタリスト、ローレンス・ジューバーは語った。
 「ポールから電話があった。”ジョージ・マーティンにこのアルバムをプロデュースしてもらいたいのだけど、彼がウィングス名義にしたくないって言うんだ。ポール・マッカートニーアルバムにしたいって”」(「Guitar with Wings A Photographic memoir」Dalton Watson Fine Books)。


 ジョージ・マーティンは一流のミュージシャンを雇って、ポールのソロアルバムを作ってはどうかと提案した。
 ウィングスは「お払い箱」という判断だ。
 ポールはジョージ・マーティンを取ってバンドを捨てた。
 これはビリー・ジョエルとは対照的だ。ビリーは『ストレンジャー』のレコーディングにあたり、憧れだったジョージ・マーティンにプロデュースを依頼。ジョージはビリーのバンドを使わないという条件を出してきたという。ビリーはバンドを選び、アルバムをフィル・ラモーンに任せた。
 80年11月30日、ポールはジョージ・マーティンとのセッションを開始した。だが、12月8日、悪夢のような出来事が起きる。ニューヨークでジョン・レノンが凶弾に倒れて帰らぬ人となったのだ。ポールは身の危険を感じて、セキュリティに最新の注意を払うようになる。
 ジョンの死はすでに陰りをみせていたウィングスに本当に意味で「とどめ」をさすことになった。そして同時に「ビートルズの一員」であったことを再認識したポールはビートリーなサウンドへと回帰していく大きなきっかけとなったのである。
 そんななか、ポールは悲しみによって混乱して居てもたってもいられなかったのだろう、81年1月2日、デニー・レインらと「タッグ・オブ・ウォー」「ワンダーラスト」「ボールルーム・ダンシング」「スウィーテスト・リトル・ショー」を録音する。
 だが、この録音も今までのところ、日の目をみていない。
 1月12日から23日までは後期ウィングスーポール、リンダ、デニー、ローレンス・ジューバー、スティーブ・ホリーが最後に顔を合わせたセッションを行った。
 ウィングスの崩壊はポールのビートルズ回帰と裏表かと思わされるのが、ビートルズ関係の交友の再開である。
 まず、ジョージ・ハリスンのジョン追悼歌「過ぎ去りし日々」にリンダとともに参加。また4月27日にリンゴ・スターと俳優バーバラ・バックとの結婚式が開かれ、3人の生き残りビートルたちが再会を果たした。


 まさにその日、4月27日にデニー・レインのウィングス脱退声明をAP通信が報じた。デニーはツアーを自由にしたいので脱退するという。
 デニーのマネージャーのブライアンは「ポールとの衝突はない。ただ、デニーはツアーを身上としている。ポールはウィングスのツアーを考えていないのだから別れる、ということなのだ」と述べた。
 新聞でウィングスの解散を知ったスティーブ・ホリーは激怒したという。デニーはポールについての暴露話を84年になってから英タブロイド紙「サン」で明らかにした。
 ローレンス・ジューバーはウィングス時代を「ポール・マッカートニー大学」の時期だったとしている。
 ちなみにポールのファンクラブ会報「クラブ・サンドイッチ」は85年36号まで「ウィングスファンクラブ」とのクレジットを残していた。

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