加藤登紀子ほろ酔いライブ
今年で52回目の加藤登紀子ほろ酔いライブ。
登紀子さんが1971年に新聞記者との飲み会で構想を得て、翌年に東京・日劇ミュージックホールで「たる酒」付きのライブで始まり、今はそれが全国に広まり年末恒例の催しとなった。
コロナ禍では中断されていたが「ふるまい酒」が復活して、コンサート会場のロビーで大関酒造の提供で振舞われた。ステージ上にも一升瓶、とっくりが用意されて登紀子さんは度々喉を潤していた。
2024年12月27日(土)、登紀子さんのほろ酔いコンサートが東京・有楽町のヒューリックホールで開かれたのに参加した。
オープニングで会場が十二分に温まって、2曲目を歌い終わると登紀子さんは会場を見渡して話し始めたー「みんな小さな種だったんでしょ。よくここまで成長されました。お会い出来てうれしいです」。
そしてお酒をついで「乾杯」となった。拍手が起こった。
「このほろ酔いコンサート52回目ですよ。皆さん生まれる前からです」というと会場が沸いた。
「一年に一回くらい砂時計をひっくり返して時間を取り戻すコンサートにしようってことで始めたんです」
この日は登紀子さん81歳の誕生日。
登紀子さん曰く「81歳、逆さにすれば18歳」。
ここはめだかの学校だから
次は「めだかの学校」だが、歌に入る前に説明があった。
戦争が終わった時、東京は焼け野原になった。小さい子を連れて詩人が散歩をしていると子どもが川のところでうずくまっている。詩人は「何してるんだ」といって子どものところへ行くと、「めだかがいたんだよ」という。詩人は自分のせいで、めだかが散り散りになってしまったと思い謝った。
すると子どもは「大丈夫だよ、ここはめだかの学校だから、また戻って来るよ」と答えたという。そこで詩人が作ったのが「めだかの学校」。
続けて、石原裕次郎さんに提供した「我が人生に悔いはなし」。
作詩を手がけたのはなかにし礼さん。「裕ちゃんの最後の曲だからお登紀、曲を書いてほしい」となかにしさんに言われたのだそうだ。
そして森繁久彌さんが1960年にオリジナルを作った、登紀子さん初期の代表曲「知床旅情」をしみじみと歌い上げた。
登紀子さんはこの歌の誕生ストーリーを語った。
1959年に羅臼で大きな海難事故があって、十数隻の船が遭難し、およそ80人が亡くなった。それを知った森繁さんはこれを映画化しようとする。どこの映画会社もそれにのらなかったので、森繁さんは自費で制作に乗り出し、3か月で映画を完成させた。
さらに、登紀子さんは初めて「知床旅情」を聞いた時の話をした。
「同志社の学生だった藤本(敏夫)さんと初めて二人でお酒を飲んだ時、空の下でこの歌を歌ってくれたんです。歌手になって3年目のことでした・・・でもこの歌って出会いと別れの歌なんですよね」と心を寄せ始めていた、のちのパートナーへのその時の揺れる思いを吐露した。
でも「それは最初の恋ではありませんでした」。
40歳の時に書いた二十歳の恋
「問題は二十歳の時、歌を始めた頃、恋人もいないんじゃピアフになれないってことで最初の人と付き合ったんです。でも別れるとなって大きなショックで。そこで”恋愛は3年で終わる”っていう私の法則が出来るんです」。
「別れた後ってこんなに凄い女になっちゃうのかなって」。
登紀子さんが40歳になった時にこの二十歳の時の恋愛を思い出して書いた「難破船」を次にギターの弾き語りで歌った。
これは中森明菜さんに提供されヒットした作品だ。
「知床旅情」を聞かせてくれた藤本さんはその後8か月「出てこなかった」。その間に書いた曲だとして登紀子さんが歌ったのは「ひとり寝の子守唄」。これは藤本さんの収容体験から出来た曲だ。
1969年6月19日に「娑婆」に出て来た藤本さんにどうしてもこの歌を聴いてもらいたかった登紀子さん。でも彼にこの歌を聴いてもらうと途中で「寂しい歌だな」と言って立ち去ってしまったのだという。
登紀子さんは藤本さんに「は酷な歌だったのかな」と思ったらしい。
次に「檸檬 Lemon」という作品を歌った。
その後、谷川俊太郎さんの詩に武満徹さんが曲をつけた「死んだ男が残したものは」。「ベトナム戦争抗議集会のために二人で仕上げたそうです」と話してこの作品を歌った。
「声をあげて泣いてもいいですか」などで第一部が終了した。
休憩を挟んで次は第二部だ。
「紅の豚」で使われたのはテスト録音
第二部はまず二曲歌った後、越路吹雪さんなどの歌唱で知られるシャンソンの名曲「愛の讃歌」で大きな拍手が起こった。
続いて「さくらんぼの実る頃」。もともとはフランスのシャンソンだが登紀子さんが日本語詞を付けた。宮崎駿監督作品「紅の豚」で登紀子さんがジーナの声を担当して、ジーナはこの歌も歌った。
「映画が公開される1年前に宮崎監督から声がかかりました」。
登紀子さんによるとテスト録音が最終的には本番に使われたのだという。
「紅の豚」の舞台は1929年。第一次大戦が終わり、次の戦争が迫っている時。しかも大恐慌の真っただ中だった、その時代を描いている。
続けてこの映画から「時には昔の話を」。
その後に登紀子さんが歌ったのは「Revolution」という作品。
登紀子さんは平和への思いを語った。「いつまでこの愚直な平和を守れるのか」「絶対に戦争はしないと日本国憲法は言っています」と彼女の憲法、特に第9条への強い思いを述べた。
そして今回のほろ酔いコンサートのハイライトーーはだしのゲン」の作者、中沢啓治さんが生前唯一残した詩を、山本加津彦さんが作った「広島 愛の川」という曲をバックに登紀子さんが朗読した。
平和への思いが込められたパフォーマンが続き、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「Imagine」が披露さた。まずは一番を登紀子さんが英語で歌って、二番はギターの告井延隆さんが英語で歌って、登紀子さんがそれに合わせるようにして日本語詞を朗読した。
悲しい子守唄だった「百万本のバラ」
いよいよコンサートも終盤。登紀子さんの代表曲の一つ「百万本のバラ」。「バラの花がいっぱい、会場ことですよ」というと昨年10月にこの歌の舞台であるジョージア(グルジア)を訪れた話になった。
登紀子さんによると、この歌はもともとはラトビアの悲しい子守唄だった。神様はみなをこの世に生まれさせてくれるが、みな平等におカネ持ちにするなど幸せにしてはくれないと嘆く歌だった。
それをソ連(当時)のプガチョワがジョージアの貧しい放浪画家ニコ・ピロスマニを題材にしたはかない恋の物語にしたのだ。
「でもこの歌はもっと大きなものを語っていると思います」。
「百万本のバラ」を歌うと会場が大いに沸いた。
登紀子さんはジョージアは現在混乱の中にあることなどを挙げてこう言った「私たち99%が平和に生きたいと思っている。1%の人が思いつき」でそれを壊してゆく。「でも90%以上の人は平和を望んでいる」と述べて決して悲観的になってはいけないと呼びかけた。
本編最後は「運命の扉」という新曲だった。
アンコールでステージに戻って来たメンバーたち。
告井さんのギターをかき鳴らす音で始まったのはアップテンポの「Never give up tomorrow」。最後の最後は「君の生まれた時間」で登紀子さんは「1943年12月27日午後0時」と話してから歌った。
歌い終わるや「Happy Birthday」が演奏され、会場のみんなで登紀子さんの誕生日をお祝いし、今年の東京でのほろ酔いコンサートの幕が下りた。