ビートルズ側近マルの本⑦
【スピリチュアル・ビートルズ】いよいよビートルズが米国上陸を果たす時がやって来た。在米の姉ルイーズを訪ねたことがあるジョージを除く3人にとっては初めてのアメリカだった。
彼らのアイドル、エルビス・プレスリーの国だ。
ローディのマル・エバンスは、パンナムのニューヨーク行きのフライトでの人生最高の旅のことを決して忘れることが出来なかった。
マルとニール・アスピナールは普通席にいた。ジョン・F・ケネディ空港に降り立つ時に待ち受けているだろう事態を考えて神経質になっていた。
到着すると3000人のファンがビートルズを待ち受けていた。アメリカの「ビートルマニア」が誕生した瞬間だった。
そのようなヒステリー状態は経験したことがなかったうえ、大勢のファンたちに取り囲まれ、それこそニューヨークのすべての警官たちに護衛されているかのように思えたという。
翌日、ビートルズはエド・サリバン・ショー出演のためのリハーサルを行った。ところがジョージがインフルエンザにかかってしまい寝込んでしまったのだ。放送の日ー2月9日(日)、ビートルズはエルビスとパーカー大佐からお祝いの電報を受け取った。マルもエルビスの大ファンだった。
ビートルズの4人は誰がその電報を記念にもらうのかでもめた。
ジョージは幸いにも回復して放送に間に合った。
放送の30分前、リンゴのドラムにバンド・ロゴがないことに気が付いた。バスドラの正面の皮にあるはずのロゴがなかったのだ。あと数分でショーが始まろうとしている時、マルは思い出した。ドラムの皮を張り替えたことを。マルはわずかな時間を使って、有名なロゴを元通りにした。
その夜、7300万人がビートルズが出演したエド・サリバン・ショーを見た。まさにポップ・ミュージックが変わる、その始まりを目撃したのだ。
2月11日(火)、ワシントンDCで初の米国でのライブを行った。マルにとって、ビートルズの歴史の中でも最も奇妙なギグの一つだった。まず、すぐに直したもののマイクがやや不調だった。そして、ジェリー・ビーンがステージに投げ込まれた。それは危険だった。
パフォーマンスが会場のみんなに見えるようにと、ステージは円形にしつらえられた。それによって違う角度の観客に向かって演奏することが可能になった。中心はリンゴのドラムだった。
彼は電動でドラムごと回転させられた。リハーサルではうまくいっていたが、本番は違っていた。そのため何曲かごとにマルがステージに飛び出して、リンゴのドラムの位置を変えたのだった。
ライブの後、英国大使館でレセプションがあった。3000人の上流階級の人々が「子どもに対する虐待防止のための協会」支援のために集まっていた。上流階級の連中はリバプール出身者たちをバカにしていた。
ことは暗転した。ある英国人ゲストがリンゴの背後から彼の髪を切ったのだ。マルは書いた「ビートルズのメンバーたちはみな悲しんだ。泣きだしそうなくらいだった、特にジョンがそうだった」。
英国大使館でのレセプションで起こった悲惨な出来事の後、ビートルズはまずブライアンがそのような招待を受けたことを責め、もう二度とそのような場には出ないと宣言したのだった。
そしてカーネギー・ホールでのライブのためニューヨークへ。さらに彼らはマイアミに飛んだ。2月16日にドゥ―ヴィル・リゾート・ホテル・マイアミからの放送があるからだった。
マイアミ滞在中にビートルズはヘビー級ボクサーのカシアス・クレイ(のちのモハメッド・アリ)と会った。マルはそのチャンスを逃してしまった。ソニー・リストンとのタイトルマッチを控えて練習中のクレイは当時22歳だった。マルにとってアメリカの旅はまさに実現した夢のごとしだった。
アメリカ人のことはどう映ったのか。
そう、アメリカ人の振る舞いは私たちにとって異質だった。私たちが「プリーズ」「サンキュー」「エクスキューズミー」というと彼らは笑った。
また、アメリカ人が私たちから、あるいは彼ら同士の間でモノを頼む時に「プリーズ」(お願いします)と言うことなくモノゴトを頼むような無作法をよくやるなと思った。でもアメリカは同じ言語を話し、同じような違いを共有する姉妹国だと感じたという。
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