週刊誌の時代の男たち⑱
第16章―遺作「往生際の達人」
桑原稲敏が亡くなって丸2年が経ち、遺作「往生際の達人」が新潮社から刊行された。
古今東西、総勢300数十人に及ぶ芸能人たちの死にまつわるエピソードを集めた本である。
同書のあとがきにみゆきさんが書いているー「死を迎えた夫の仕事机の横に、本書の生原稿は無造作に積まれていた」
「その平成五(1993)年の年頭には、すでにこの書き下ろし原稿は完成していたようだったが、年末の段階ではまだ、どこの社からも、出版の目処は立っていなかった」
「年が明けたら、今度はこっちの原稿も出版社を決めなくてはナッ」
「本書の原稿を前にして、そう語る夫の口には、あせりの気配は感じられなかった」
「スケジュール帳の余白には、年が明けたら新たに取材や執筆にとりかかる予定の、いくつかの企画の仮タイトルが並んでいた」
「原稿を読んでいただけないだろうか?」
夫の遺したアドレス帳を手掛かりに、私自身は一面識も持たない新潮社出版部の瀧本洋司氏に失礼を顧みず電話を差し上げたのは、平成7年の秋のことだった。それまでも原稿は、何人かの編集者に目を通してもらっていたが、一定の評価は受けるものの、なかなか出版の承諾を得るには至らなかった」
「この度、筆者の死より丸四年を経たところで、新たに「往生際の達人」というタイトルを得、遺っていた原稿をそのまま活かす形で、新潮社より上梓することが出来たのは、これにまさる死者への供養はない」。
芸人に対する愛情
編集者の瀧本さんは「ダ・カーポ」の1998(平成10)年4月15日号で「初めの50枚を読んだ時に、これはいけると思いました。スターの光と影を十分に知り尽くしていた故人ならではの芸人に対する愛情が満ち満ちて胃おり、“死”に焦点を絞り込んだ今日的視点も優れていました」と語っていた。
また、桑原稲敏が敬愛していた小沢昭一氏が帯に一文を寄せてくれたー「さぁ、お前はどう生きて、どう死ぬのか、と刃を突き付けられました。ハテ、おそろしき名著よな」。
稲敏は天国で喜んでいたに違いない。遺作は好評を博し、多くの書評でも取り上げられ、のちに文庫化された。
なお、この本で使われた桑原の写真は、女子プロ野球の本が出版された時、共同通信に著者インタビューを受けた際に、当時の共同の虎ノ門にあった本社地下の喫茶店で撮影されたものだった。その時に取材にあたったのは、のちに文化部長になる黒沢恒雄さんだった。
「噂の真相」が追悼特集
「噂の真相」は1994(平成6)年3月号のグラビアで桑原の追悼特集をした。
岡留編集長はコメントしたー「とにかくコンピューターのように芸能界や芸能人の事情に通じていた。ちょっと、あれはどうですか?と聞くと理路整然とした解説が的確に返ってくるので、芸能事情にうとかった私にとっては貴重なブレーンでした」
「テレビの芸能レポーターとはスタンスが違って芸能の論理を熟知してましたね。例えば芸能界と暴力団の癒着云々に対しても、そもそも芸能界は歴史的にそのつながりでやってきた業界であることをキチンと分析したり、ビッグな芸能人同士の結婚にしても主人が二人でうまくいくわけがないといった解説でした」
「竹中労氏が芸能ものから手を切って以降、お茶の間論理に迎合しない芸能評論ができる貴重な人でした」。
「週刊新潮」1994年1月1日号も「アンチ御用評論家「桑原稲敏氏」の辛口人生」と題した追悼記事を掲載した。
ミズノスポーツライター賞
幻の女子プロ野球を描いた「女たちのプレーボール」は、1993(平成5)年度ミズノスポーツライター賞を受賞した。
ちなみに同時受賞したのは東京新聞・佐藤次郎氏の「もうひとつの風景」、北海道新聞夕刊に掲載された連載企画報道「スポーツすぺしゃる&たうんガイド」、ベースボールマガジン社の「サッカーマガジン」掲載の牛木素吉郎氏の「ビバ!サッカー」、河出書房新社発行の佐山和夫著「野球とクジラ」だった。
この賞は公益財団法人ミズノスポーツ振興財団が主催する、スポーツライターの活躍と業績を顕彰するものでスポーツノンフィクションと報道が対象。1990(平成2)年に始まった。桑原が受賞したのは第4回の時だった。
おめでたい受賞だったが、すでに稲敏はこの世にいなかった。
で、ひと悶着起きる。
桑原の女子プロ野球取材に自分も少なからず貢献していたと考えていた前妻・泰子と未亡人のみゆきさんが賞金をめぐって「誰が本来受け取るべきおカネなのか」と争った。
授賞式は、そんなことを背景に、なによりもみゆきさんがちょうど身重だったこともあって、身内がいない場となってしまった。
(続く)