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週刊誌の時代の男たち⑳
エピローグ
桑原稲敏は私(筆者)の父である。
ペンを進めるのは辛かった。
仕事人としての父について知らないことばかりだった。父が早世したからというのは言い訳で、本当の意味での話をいかにしたことがなかったかということを痛感した。
家庭人としての父を書くのは、私の中で消え入りそうになっている記憶を引きずり出してくる、そうした作業、それはちょうど鶴が自分の羽根を抜いて織ってゆく、そんな苦しい作業でもあった。
そして、当然のことだが、みゆきさんのことは全くといっていいほど知らない。でも出来るだけフェアに書きたいと思った。もちろん、稲敏と泰子の息子である私という人間の目を通して書いているわけだから仕方がない面はあるが、それを常に頭に置いた。
フェアに書くためには当然ながら多くの情報を得る必要があったのはいうまでもない。
いい情報であれ悪い情報であれ、多くを集める。まずそこからスタートした。
それは事実かもしれないが、いくら量があったとしてもそれは必ずしも真実ということではない。事実を並べつつ、それらを心のフィルターを通して考える、そんな吟味を重ねる作業が続いた。
私が大学4年生の秋、日経新聞に入社することが決まった。翌年の年賀状に父はこう書いたそうだー「やくざ稼業は一代限り」。
本当に一代限りだったかは置くとして、父は自分がフリーランスで苦労してきたので私が日経という大手新聞でサラリーマン記者が出来るということに安堵したのだろう。
そして何よりも自分と同じ物書きという仕事を選んだことを喜んでいたと思う。今父が生きていれば、それこそエイヒレをつまみに冷や酒を酌み交わしながら、いろいろなことを話せたのにと思う。
あとがき
この文章を書くにあたって多くの方々のお世話になった。
まずは父の友人で仕事仲間のルポライターの岡邦行さん。学生時代からの父の知り合いで同じ釜の飯を食ったこともあったジャーナリストの吉田元夫さん。
このお二人には構想段階から貴重なアドバイスを頂いた。岡さんはソフトに、吉田さんは厳しく、「飴と鞭」のごとく私を鍛えてくれつつ導いてくださった。
「女性自身」でおよそ10年にわたって父と付き合っていただいた奥永文彦さんには当時の貴重な取材の話などを伺うことが出来た。
「日本観光新聞」「女性自身」時代の同僚、箱山善徳さんには詳細なメモを書いていただいた。「日本観光新聞」時代の父を知る榎本俊さんにも心温まる思い出を聞かせて頂いた。
「アサヒ芸能」で長年にわたってお世話になった前園光雄さんには多くのエピソードを聞かせてもらう機会を頂くことが出来た。
ともに「週刊文春」記者時代に頻繁に父に接していたというノンフィクション作家・大下英治さんと「月刊HANADA」編集長として保守論陣を引っ張る花田紀凱さんにも多忙のなか貴重なお時間を割いていただいた。
高校時代の同級生、藤ノ木太朗さんには遠い記憶を辿って頂いた。また、大学の同期生、鶴田旭さんにはあの時代の大学生とりわけ明大生のことを教えていただいた。
十日町新聞の山内正胤会長は訪ねて行った私を暖かく迎えてくださったうえ、レスリングの吉田沙保里さんなど多くの友人たちの写真が貼られた執務室で話をしてくださった。
父の最後の担当編集者でみゆきさんともつきあいがあった元「噂の真相」の神林広恵さんには私の母と離婚した後の父について教えていただいた。なによりもみゆきさんの友人、高崎真規子さんを紹介していただき、大いに助けになった。
大学の後輩の加藤太郎さんには細かいところまで時間をかけて読み込んでいただき、貴重なご指摘を何度もしていただいた。
ほかにも貴重な証言をしていただいた方は多数いるがここでは割愛させていただきたい。みなさん、どうもありがとうございました。そして、父が大変お世話になりました。遅ればせながら、感謝の気持ちを伝えさせて頂きたいと思います。
私はお墓参りというのは大切だと思いつつも、何よりもの供養は故人のことを忘れずに時に思い出してあげることだと思っている。
どうかたまには父の「ニキビ面」を思い出してあげてほしいと思うのです
そして、腹違いの妹たちはこれを読んでどう思うかわからないが、長女については幼いながらも残っている父の記憶とどこかでつなげられるような部分があればいいと思う。
次女に関しては父を知る一つの参考になればいいと思っています。
父稲敏は生前、長女にこう言っていた「お前にはお兄ちゃんたちがいるんだよ」と。
当然のことながら、みゆきさんについての記述が正確で真実に近いものであることを祈ります。
最後に両親に感謝したい。
母と晩年過ごす時間を長く持つことが出来て私は幸せだった。父と歩んだ妻としての母、女としての母――そして人間泰子の生きざまを私は誇りに思う。
父の狼藉については今もすっきりしないことはある。しかし、そんなことがあっても、私は父のことが好きなのだ。家庭人としての父を反面教師にし、ジャーナリストとしての父を尊敬している。
父に言いたかったー「どうもありがとうございました。本当は大好きだったんだよ、お父さん!」と。
(終わり)