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ビートルズとフィリピン
数年前、「オベイション・プロダクションズ」の興行師レネン・デ・グイアはポール・マッカートニーを招聘してマニラでコンサートを開きたいと考えた(フィリピンの日刊紙「デイリー・トリビューン」2021年10月20日付電子版)。
デ・グイアは今までにメタリカ、スティング、マンハッタン・トランスファーらのフィリピン公演を手がけたことがあるやり手のプロモーターだが、ポールの招聘に関しては「勝算がないだろう」と思っていた。
というのもビートルズはフィリピン公演のためにマニラを訪れた1966年7月、当時のファーストレディ、イメルダ・マルコスのパーティを「すっぽかした」として、帰りの空港でスタッフともども暴力騒ぎに巻き込まれた苦い経験があるからだ。
ジョージ・ハリスンは言った「突如として国中が僕らを攻撃してきた。空港に向かおうとしている時も、やじられたり怒鳴られたりしてね」(「アンソロジー」リットーミュージック)。
ジョン・レノンも「僕の乗った飛行機がフィリピンを通ることはない。上空を飛ぶだけでもうごめんだね。もう二度と狂った場所には行きたくない」と話し、リンゴ・スターも一言「僕はフィリピンなんて大嫌いだ」。
だが、事件を「再検証」しようという動きが出てきている。
例えば、英BBCのワールドサービスで2021年12月18日に放送された50分のドキュメンタリー番組「ビートルズがイメルダに会わなかった時」もその一つだ。
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66年当時、フィリピンでもビートルズ人気は絶大だった。
BBC番組で、ある女性ファンは言った「ラジオでビートルズを聞いた時、これこそ求めていたものだと思いました。長きに続くラブ・アフェアで、その気持ちは今も続いています」。
他のファンは「64年になると、ロック専門局DJRJでは「抱きしめたい」「シー・ラブズ・ユー」あんどのビートルズナンバーが1時間に2回はかかっていた」と当時を振り返った。
日本公演を終え、ビートルズ一行がマニラに到着したのは7月3日のこと。マニラに着いた4人は熱烈に歓迎された後、空港近くの空軍基地内の役8平方メートルの狭い部屋で記者会見を開き、そこは50人ほどの記者たちでいっぱいになったという。
その後、マニラ湾に浮かんだボートにビートルズ一行は移動させられた。ボート内は警備がいきとどいており、軍が面倒をみていた。
フィリピン紙「サン」によると、ビートルズの4人はボブ・ディラン、日本の流行歌、インドのシタール音楽を聞いていたという。
ヨットが揺れること、またやることがなくなったため、ビートルズらは朝の4時に格式高いマニラ・ホテルにチェックインしたという。
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その日の午前11時にイメルダは招待した300人のゲストの前でビートルズに演奏してもらいたいと思っていたという。
しかし、ビートルズは現れなかった。
4人は目が覚めるとテレビをつけた。映っていたのは恐ろしい番組で「マダム・マルコスが叫んでるんだ。「私は侮辱された!」って。カメラマンは空っぽの皿とか小さい子の顔をアップにしていた。子どもはみんな泣いているんだ、ビートルズが来てくれなかったって」とリンゴは語る。
テレビの放送後、PR担当のトニー・バーロウは「ダメージを最小限に食い止めるための緊急措置として、ぼくは(マネージャーの)ブライアン・エプスタインに読ませる報道陣向けの声明文の原稿を書き、地元のチャンネル・ファイブ・テレビに電話を入れ、ニュース班をホテルに寄こしてブライアンとのインタビューを収録し、それをあとの時間のニュースで放送してくれるように説得した」(トニー・バーロウ著「ビートルズ売り出し中」河出書房新社)。
しかし、声明は数時間後に放送されたが、ブライアンの言葉は正体不明の混信によってほとんどすべてかき消されてしまった、とバーロウはいう。
その日(7月4日)の午後は二回、午後4時と8時にリザール・メモリアル・フットボール・スタジアムでコンサートを行った。8万人を動員した。
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チケットは50ペソ(およそ4620円)、30ペソ(約2800円)と20-10ペソ(約1850~920円)で、当時のフィリピンの国民一人当たりのGDP(国内総生産)780ペソからすると高値で、一般のファンが小遣いでは買えず、高級子弟が主な観客だったと考えられる。
特に大変だったのは翌7月5日。マスコミが「侮辱」だと書き立てた。
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ホテルは一切のサービスを断ってきた。空港に行くのも一苦労。空港でビートルズがスタッフと合流すると、ごろつきが「銃をかざしては天井に向けて発砲し、ありあわせのこん棒と鉄パイプをぼくたちの前で振り回した」とバーロウはその時のことを振り返った。
ブライアンとローディたちが一番酷い目にあった。
搭乗機が滑走路を飛び立った途端、一行からは拍手が沸き上がったという。バーロウによると、ジョージは「もしまたあそこに行くことがあるとしたら、特大の爆弾を落としにいくときだ」とまで言ったそうだ。
マニラ公演の興行主を務めたラモン・ラモス・ジュニアがマラカニアン宮殿からの要請を断れなかったうえに、ビートルズ側とは連絡が取れていなかったという。また、同宮殿への先導役を彼が務めることになっていたなど、「功名心」があだになったとの見方もある。
空港での事件についてBBCの番組は「イメルダの弟(ベンジャミン・ココイ・ロマルデス)が侮辱を許さないとして起こしたようだ」との説を紹介した。イメルダはBBCのアラン・ウィッカーに「情報が誤って伝わり、処置がへただったようだ。空港での出来事を知って、私はすぐに弟を空港に向かわせた」と話していたという。
ポールは言った「散々なツアーだったが、よかったこともある。結局(マルコスとイメルダが国民に対してどんなことをしていたか、すべて暴利を得るためだったとわかってみれば)僕らのしたことは正しかった」。
「マルコスにタテついた人間はきっと僕らしかいないよ。だけど僕らのしたことの政治的な意味なんて、何年も経つまでわからなかったけどね」。
マルコスとイメルダは独裁的、強権体質が嫌われ、86年の「ピープルパワー革命」でマラカニアン宮殿を追われ、彼らはハワイに亡命した。マルコスは89年に死亡。イメルダはのちに帰国した。
時が経って、国を一時は追われたマルコスファミリーが復権した。マルコスとイメルダの息子、通称「ボンボン」が今や大統領である。
ポールらがマニラの地を踏むことはますます遠ざかったようだ。
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