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藤本・湯川のビートルズ
最初にして最後となってしまったビートルズ来日から58年目に際して、ビートルズ研究家の藤本国彦さんをナビゲーターとして音楽評論家・作詞家の湯川れい子さんがビートルズについて大いに語った。
2024年6月29日(土)、「In Memorial The Beatles live in Japan Vol.2 ~藤本国彦・湯川れい子が語るビートルズ~」が六本木のライブハウス「アビーロード」で行われた。
さらに、ビートルズのトリビュートバンド「パロッツ」が日本武道館での来日ステージのライブを再現した。
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時間になると藤本さんがステージに上がった。「今日はストーリーテラーということで893改め藤本国彦です」と挨拶した。
「今日6月29日はビートルズが58年前の1966年に来日したのですが、その記念日ということでのイベントです」。
ここでスペシャルゲストの湯川さんが登場した。
まずはビートルズが来日すると聞いた時どう思ったのだろうか。
湯川さんは「いよいよ来るかって感じでしたね。それまでにもういろいろなことが渦巻いていて、ビートルズを日本に呼んだ永島達司さんはそれ以前にも外国のアーティストを赤坂のニューラテンクオーターなどの高級クラブに出演させていました」。
「或る日、達ちゃんのところに(ビートルズのマネージャー・)ブライアン・エプスタインから電話があって、日本に行きたがっていると言っていたと私は聞いていたんです」。
1964年くらいから音楽雑誌「ミュージックライフ」にビートルズの写真が載るようになっていたが、これはシンコー楽譜出版の草野昌一専務取締役ーこの人は漣健児のペンネームでアメリカのヒット曲に日本語詞をつけていたーのお手柄だったという。
「草野さんがエプスタインのところに行って取材の申し込みをしました。星加ルミ子さんが編集長でしたが、実質的な編集長は草野さんでした」。
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「草野さんから私にミュージックライフと専属契約しないかと言ってきました。私が他に書くとミュージックライフの競争相手になっちゃうから。その時の値段で300万円、今だったら1000万円くらい、私は受けました。大変な貧乏暮らしをしていたので夢のような話でした」。
「条件はビートルズのことについて他の雑誌に書かないことでした」。
「草野さんは凄い人です」と湯川さんはいう。後年、ビートルズの楽曲の権利が売りに出されるとき、草野さんはボストンバッグに1万円札で1億円詰めて出かけたのだという。
結局はマイケル・ジャクソンに負けたが、マイケルの条件は彼のコンサートの売り上げの一定割合をプラスするというもので、それでマイケルに草野さんは負けたのだと湯川さんは説明した。
”音楽業界の温泉芸者”
話はビートルズ来日の年、1966年に戻る。
当時世間ではビートルズの音楽は理解されていなかった。湯川さんは「こんなに素晴らしい音楽で世界で評価されている音楽で、これだけ音楽的に高度なことをやっているのに反対されるのが不可解でした」という。
「最初、記者会見には私も星加さんも入れてもらえなかった。音楽記者クラブというのがあったんです。私とか星加さんは記者扱いされていなかった。やがて一部の記者(のバックアップ)により入れたんですが」。
ビートルズ来日時の記者会見はキャピトル東急で行われたが、会見場にはカーテンが下がっている、その下に足だけが見えたのだという。
「私と星加さんは”あのコンビネーションの靴はリンゴだね”とかって話していて、カーテンが上がった時に思わず”キャー”って言っちゃったんです。東京のスポーツ紙にあとで書かれました”音楽業界の温泉芸者”だって」。
でも女の子がキャーって叫ぶのは「本能的に自分の生命感覚に反応しているからで、分からない人は分からないから否定するんです」と湯川さん。
「女の子がキャーキャー言った後は子どもが生まれるんです。男がギャーギャー言った後は戦争が起こるんです」。
過剰といわれた警備について湯川さんは「あんなに高速道路を封鎖したり、毎日2000人もの警察官を動員したり、あれ税金なんですよ。何で(彼らがいう)乞食バンドに税金を使ったのって私にはクエスチョンマークです。いまだに否定されますが」と話す。
湯川さんは、将来ありうる米大統領の来日のための準備だったとみている。というのもアイゼンハワー大統領の報道官ハガチーが日本に来た時に、日米安保(条約改定への)反対が凄くて、羽田空港から東京(の中心)に入れずに引き返したことがあったからだ。
国が仕切っていたビートルズ来日
湯川さんは週刊読売のビートルズ来日特集号の編集長を務めていた。だが、なかなか彼らに接することが出来なかった。それはエプスタインが極東ツアーの取材権をタイム・アンド・ライフに売っていたからだった。
それでも永島さんは「最後の夜に、東京タワーの下に”うさぎ”っていうレストランを予約しておいてくれて、そこで取材できるようにって。でも警視庁からビートルズが外出を禁じられて」実現しなかった。
「国が仕切っていたんですね」。
だが最後の最後、永島さんに頼み込むと日本武道館の腕章をビートルズが欲しがっているということにして湯川さんがホテルにそれを届けにいくことにしたのだ。この作戦は成功した。
ホテルの部屋に入ると4人が描いた絵が散らばっており、白黒テレビが音を消したまま「アイ・ラブ・ルーシー」を流していたという。「真っ先に飛び出してきたのはポール(・マッカートニー)で、本当に大きな丸い目がもっと丸くなって”君はどこから入ってきたの”って言ったんです」。
それに対してジョン・レノンは「本当に意地が悪くて長椅子の一番向こうの端に座っていてそっぽを向いていて、本当に意地が悪かった。所在なげに歩き回っていたのはリンゴ(・スター)で、疎外感がありました」。
湯川さんが語る「失われた週末」
ここで話は今上映されている映画「ジョン・レノン 失われた週末」のことになった。この映画は73年秋から75年初めまでの18か月、ジョンがオノ・ヨーコと別居して二人の秘書だったメイ・パンと一緒にロサンゼルスなどで暮らしていた期間のことを描いている。
湯川さんはいう「75年2月、バレンタインデイの日にヨーコさんから電報をもらったんです。ニューヨーク発信で”John is back love”ってあったんです。その短い電文の中に気持ちが詰まっていて、私は泣いたんです」。
「ヨーコさんの話を聞くと用意していたシルクの花柄のパジャマをジョンは着て子どものように飛び跳ねて喜んでいたというのです」。
74年11月28日にニューヨークのマディソンスクエアガーデンでのエルトン・ジョンのコンサートにジョンが飛び入りした日、ジョンとヨーコは久しぶりに顔を合わせた。その日に二人はよりを戻したとする説もあったが、実際にジョンがヨーコのもとに帰ったのは75年2月だったのだ。
湯川さんがヨーコから聞いていたのは、ジョンがウェストコーストで女性問題を起こしては困るのでメイ・パンにお願いして行ってもらったと。しかし、メイは湯川さんに言ったという「私はお願いなんてされていない。ジョンは明らかに自分の好奇心でもって恋愛感情を抱いていると分かっていて、二人で話をしてウェストコーストに行ったんです」。
ジョンは結局ヨーコが新たな禁煙法を教えるという言葉によってヨーコのもとに戻ったという。湯川さんがメイ・パンに「どうして取り戻しに行かなかったの」と聞くと、いくらダコタハウスに電話をしてもヨーコに取り次がれて「いない」という返事だったのだという。
メイ・パンは実際にダコタハウスにも足を運んだが、厳しいセキュリティで追い返されてしまった。「結局、マイク・チャップマンだけは止められなかった。歴史が変わってしまった」と湯川さんは言った。
パロッツが日本公演を再現した!
後半はパロッツによるビートルズ来日公演の再現ライブだった。
藤本さんは「まずは司会のE・H・エリックさんをお呼びしましょう」というと現れたのはパロッツのフーミンこと松山文哉さん。
フーミンは「私はキーボードなので出番がないので司会をやろうと思います」と言ってパロッツいやビートルズの紹介をした。
武道館公演さながらにチューニングをするジョン役の星宣彦さんたち。いきなり星さんがギターをかき鳴らし始まったのは「Rock and Roll Music」。
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この後演奏されたのは:「She's a woman」「If I needed someone」「Day Tripper」「Baby's in Black」「I feel fine」「Yesterday」「I wanna be your man」「Nowhere Man」「Paperback Writer」そして「I'm down」だった。
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最後の2曲で、フーミンはそれぞれタンバリンとキーボードで戻って来た。「I'm down」では肘でキーボードを弾きまくった。
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ここでアンコールを求める拍手が鳴り止まなかった・
パロッツは一旦ステージを去ったが、戻って来た。
ポール役のゴードンこと野口威さんは「やっと日本語でしゃべれます。ビートルズは絶対アンコールをやらなかった。終わるとさっさと帰りました。我々は出来るだけいようとします」というと笑いが起きた。
「どうしよう、何も決めてないので」というと藤本さんに「もし日本公演でアンコールをしたとしたら何を」と聞くと答えは「Twist and Shout」。
そう、その人気ナンバーをアンコールでまず演奏した。
続けて「Roll over Beethoven」。
これで楽しい2時間のイベントは幕を閉じたのだ。
最後の最後に藤本さんが現れて一言「E・H・エリックがあんなにキーボードが上手だとは知りませんでした」。
ジョークで締めるところなぞはまさにビートルズ流だった。
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