週刊誌の時代の男たち③
桑原稲敏には吉田元夫さんという仲間もいた。
桑原が吉田さんと知り合った時、彼は早稲田大学文学部仏文科の学生だった。吉田さんは向井寛監督のもとでピンク映画の助監督をしたのちに桑原の口利きで「女性自身」で働き、後年、吉本興業でも活躍した。
吉田さんは「桑さんとやった企画もので一番印象に残っているのは、梅宮辰男の闘病記です」と話す。
「梅宮さんがステージ1か2の肺がんになって、「ここで闘病記を出せば同じ病の人たちの励みになる」ということで梅宮さんに取材して記事を書きました」。
梅宮は映画「仁義なき戦い」、「不良番長」シリーズ、テレビドラマ「前略おふくろ様」などに出演し、男臭い演技で知られた俳優だ。
闘病記は1975(昭和50)年2月13日号の「女性自身」に掲載された。「戦慄の告白(今だから話せる)私はいま恐怖の肺ガンと闘っている!」という大きな見出しが躍った。
梅宮は闘病生活を克明に証言した。治療法はX線(リニャックとよばれる投射)と腫瘍細胞を殺す注射を併用したという。
「何回か胸部に投射するでしょう。すると背中のほうまで焼けて、黒っぽくなるくらい強烈なんですよ。それに注射もきつかったなあ。細胞を殺すだけあって、こいつを打つと乗り物に酔ったようになり食欲はなくなる。身体を動かすのも億劫になってしまう。なんでも、白血球を減らす副作用があるらしいんだ」。
梅宮は肉体的な辛さとともに精神的にも追い詰められたことを告白した。
治療を続け、腫瘍が消えていることがレントゲン写真で確認できたと告げられた梅宮は、驚き、そしてそれは喜びに変わって「小躍りしながら「バンザーイ!」と叫んでいた」という。
「初めて“死”と直面し、それに臆することなく立ち向かい仕事をやり抜いたということは、今後の俳優人生にとって大きな収穫になると思いますね」と梅宮が所属していた東映の新見博氏(企画制作部俳優課長)はコメントしていた。
講談社、光文社の音羽村
当時、「女性自身」を有する光文社は文京区音羽でキングレコード、講談社と同じ敷地内にいた。
その建物から5,6分ほど音羽通りを江戸川橋方面に歩いた、目白通りが合流してくる目白坂下の交差点のあたりに倉庫兼分室があって、そこに大人数が詰めて記事の仕上げをしていたと奥永さんはいう。
「光文社の倉庫と何百坪かある空き地があったので、二階建てで20部屋くらいある建物を建てたんです。そこでニュースやグラビアをやっていました。布団がある仮眠室があったりして、タコ部屋でしたね」。
現在の光文社の本社ビルが建ったのは1996(平成8)年とわりと新しいことだ。隣の現在の光文社第2ビルの方が古くて、こちらは1985(昭和60)年の完成だ。
裏手にはお茶の水女子大学がある。また音羽通り沿いには総理大臣を務めた鳩山一郎の元邸宅で鳩山由紀夫元首相もそこで育った「鳩山御殿」を公開する「鳩山会館」もある。
坂の多い所だ。一説によると、文京区には100以上の坂があるという。
ちなみに音羽という地名の由来はこうだ。この地にはもともと小石川村、雑司ヶ谷村、小日向村、関口村があったが。五代将軍綱吉が護国寺を建立して、元禄10年(1657年)に護国寺領となる。
幕府は奥女中の音羽に家作を与えて、それで町名を音羽にしたのだという。また、護国寺を京都の清水寺に模して、門前を音羽町にしたのだともいわれている。
その当時の「女性自身」には錚々たるライターたちが集結していた。
そのなかの一人に児玉隆也氏がいた。
児玉氏は、田中角栄首相(当時)の金庫番と言われた佐藤昭という女性を描き、角栄退陣のきっかけともなった「寂しき越山会の女王」の筆者として知られる。
十日町新聞会長を鍛えた児玉隆也
新潟県十日町市のローカルペーパー「十日町新聞社」の山内正胤(やまうちまさおみ)会長は若かりし頃、新潟から東京へ来て早稲田大学を卒業する。
山内さんはいろいろな雑誌で修業するが、「女性自身」にいた時に指導を受けたのが児玉さんだったと山内さんは懐かしむ。
「「女性自身」には2年ほどいましたが、私のデスクは早稲田の先輩で児玉隆也という人だった。とにかく厳しかった。何度も何度も書き直しをさせられた」
「「お前は週刊誌の記者じゃなくて歴史がある新聞社の社長になるんだから」と特別に指導をされたんです。児玉さんの下にずっと置いてもらったことは人生でとてもよかったことだと思っている」。
「児玉さんは服装にも厳しかった。当時ハイネックが流行っていたので着て行ったら「帰れ!」って怒鳴られた。「ワイシャツにネクタイにしろ」と言われた。今でもよく覚えています」。
「新潟に帰ったら地方新聞の編集をやるのだからと、社会事件モノや、有名小説家と女優との対談の取材を主にやった。五味康介先生や川上宗君先生の酒の相手をしたのも良い経験になった。五味先生にはしょっちゅうご馳走になった」。
「テープを起こして記事を書き、アンカーが児玉さんだった。あの人のおかげで今の仕事が出来ていると思う。幸運だった。また、芸能レポーターになった須藤甚一郎などは一緒に取材をしていた仲間だった」。
伝説のジャーナリスト大宅壮一や竹中労や草柳太蔵、「ノストラダムスの大予言」というベストセラーを出す五島勉、戦記作品を多数残した作家の児島襄もかつては「女性自身」など光文社でライターやアンカーをしていたことがあった。
チェンマイのハーレム
1973(昭和48)年頃、家の購入資金をもらいすぎたと泰子の親戚から戻って来たおカネ約20万円を見た桑原は、それを持って急遽タイに飛んだ。
チェンマイで多くの「幼な妻」と共に暮らす“ハーレム”玉本敏雄さん(39)を取材するためだった。
玉本さんは貧しすぎるほど貧しい女の子たちを大金で買い求めて、“ハーレム”に同居させたり、別に家を買い与えたりして、洋裁学校や英語学校や高校に通わせていた。
タイにおける人身売買容疑は不起訴となったが、問題になったのはおカネの出所だった。玉本が韓国から日本に覚せい剤を密輸して得たカネだということが明らかになったのだ。
桑原がタイに飛んだのは、玉本がパスポートの問題を口実に日本に送り返されるまさにそのタイミングだった。
首都バンコクに着くとタクシーと交渉してした。日本円にすると1万円くらいを渡したら、運転手は何でも言うことを聞いてくれたとのこと。そりゃそうだ、大家族を1年間養えるだけの大金だったからだ。
玉本に抱きついた幼な妻たち
「女性自身」1973(昭和48)年2月17日号にチェンマイ発の記事「「2,3年で帰るよ」と幼な妻に笑顔の別れ」を書いた。
記事は2月1日にチェンマイ空港に玉本が到着して幼な妻たちとの別れを惜しむシーンから始まる。玉本が拘置されてからは身なりにかまわずに朝昼晩と一日3回、食事の差し入れを続けてきた女たち。
この日は玉本を見送るとあって原色のはなやかな民族衣装を身に着けていた。玉本が現れると彼にまとわりついたという。
「玉本は幼な妻たちを、グルリと見まわしていった。「お金はおまえたちが困らないように、ある人に預けてあるから心配しないで。みんないままでどおり、仲よく暮らしていくんだよ」」。
「幼な妻たちは、すなおにうなずいた」。「日本へ行っても、元気でいてください」「おまえたちも元気でね。かならず帰ってくるからね」」。
当時の週刊誌には玉本さん関係ニュースが溢れていた。「女性自身」のほかをみても、「週刊現代」1973(昭和48)年1月22日号は「少女13人を買って妻にして何が悪い」。「週刊朝日」同1月26日号は「タイの現地妻ら20人を手玉にとった玉本敏雄の全行動」。
「サンデー毎日」同1月28日号は「「女」と「薬」ナゾの男 玉本敏雄の正体」、「週刊文春」同1月29日号は「疑惑のハーレムの王様・玉本さんー金の出所をめぐる黒い推理ゲーム」といった具合だった。
さて、桑原は珍しいお土産をもって帰宅した。それは旅行カバンの底に隠して税関の目を潜り抜けたフルーツだった。日本ではまだ一般的でなかったライチなどに家族は驚いた。とりわけライチは白く瑞々しかった。
(続く)