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週刊誌の時代の男たち⑦

オリコンに対抗して
 そんな仲間たち「桑原組」で手がけたのが隔週発行の音楽情報・チャート雑誌「ミュージックリサーチ」だった。
 新しい雑誌を始めることで、1967(昭和42)年に創刊された「オリジナルコンフィデンス(オリコン)」の寡占状態に挑んだのだ。
 「オリコンに対抗するため、まず、「オリコン」で小池聰行(社長)の右腕だった西田三郎を引っこ抜いた」とルポライターの岡さんは話す。
 そして「ミュージックリサーチ」は1973(昭和48)年10月に創刊した。
 小松左京のSF小説「日本沈没」がベストセラーとなり、ちあきなおみの「喝采」やかぐや姫の「神田川」、ガロの「学生街の喫茶店」、宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」などがヒットしていた。
 「ミュージックリサーチ」は値段があってないようなものだったという。「ミュージックリサーチ」はおよそ5000円くらいの値段だったという。。 レコード会社やレコード店、芸能プロダクションが定期購読してくれていたおかげで値段を気にせずにすんだという。
 「ミュージックリサーチ」はA3と大判で、のちにカラーページも出来るが、当初は黒とブルーの二色刷りだった。

売り物だったヒットチャート
 売り物はやはりチャート情報で、全国のチャートだけでなく、地域ブロックごとのチャートも掲載していた。


 現在、北九州の中古レコード屋「FANFAN」の店長で、1978(昭和53)年4月からは久留米にあった河合楽器のレコード店に勤めていた中嶋ひろ志さんは、店では「オリコンウィークリー」と「ミュージックリサーチ」を購読していたという。
 「両誌は肩を並べていて、同じような権威を持っていたと思います」と中嶋さんは話す。
 「実際、「ミュージックリサーチ」には各店の売り上げランキングや各ラジオ局のヒットチャート番組のデータなどが掲載されていて、重宝しました」という。
 中嶋さんが働いていたレコード店には「毎週レコード売り上げ上位50曲の調査用紙が送られてきて、記入して毎週郵送して送り返していました」という。

 吉田さんは「東京に進出してきた大阪有線の中安励(なかやすはげむ)会長と桑さんから、小池の「オリコン」に対抗して「ミュージックリサーチ」をやると聞かされた。
 小池はレコード会社の販売枚数を操作していたらしく、中安さんの息がかかった歌手がその被害にあって、「泣きついてきたらしい」」
 「中安さんはボストンバックに札束をつめて上京してきたと事実上「影」の編集長を務めていた桑さんから聞いたことがあった」と吉田さん。
 「神田のガード下で中華料理屋をやっていた、桑さんの後輩の高橋彬さんら明治大学のグループがやって来た。のちに桑さんの女子プロ野球をテーマとしたノンフィクション作品を手がけることになる編集者の原さんも加わった」。

オイルショック
 岡さんは1973(昭和48)年11月のオイルショックで景気が急速に悪化したことで、当時嘱託記者として働いていた学研のボウリング雑誌が売れなくなり、カメラマンの高野さんから「ミュージックリサーチ」に来ないかと誘われた。
 同年暮れに岡さんは入社するが、その時が桑原とは初対面だった。
 その時「桑さんに言われたのは「プロダクションからカネが来たら俺に言え」ということだったと岡さんは回想した。
 前述のように、日本観光新聞と女性自身で同じ釜の飯を食った箱山さんも同じことを言われていた。
 岡さんはのちにキングレコードからデビューした演歌歌手の浅草でのキャンペーンを取材しに行った。
 帰りに「交通費」として封筒が渡された。
 会社に戻って桑原に「これもらってもいいんですか」と訊くと「いくら入っているんだ」と岡さんが逆に訊かれた。
 中身を確かめてみると2000円だか3000円だった。すると桑原は「それぐらいだったらいいだろう」と言ったそうだ。

 さて、岡さんが「ミュージックリサーチ」の事務所に行くと、革ジャンを着た吉田さんがいて「頑張れよ」って言われた。
 岡さんは「桑さんは「私のヒット曲」というようなタイトルの連載を持っていた。作詞家や作曲家にインタビューして一枚のレコードのエピソードを書いていた」という。

天地真理をデートに誘う!?
 また、「有楽町に当時はあった喫茶店「アマンド」で、桑さんとぼく、カメラマンの高野が同席して、レコード店の販売員と天地真理を対談させた。 「ミュージックリサーチ」は毎号、そのような座談会をやっていて、そのときは天地真理が出席した」。
 1974(昭和49)年初めのことだった。
 「アマンドで対談をやった理由というのは、JR有楽町駅近くの今のシャンテの裏側の線路沿いに松井ビルというのがあって、その4、5階に当時、ナベプロが入っていたからだ。そのビルの1階がアマンドだった」。
 ビルとしては小さく、決してきれいな建物ではなかったと岡さんは回想した。「座談会が終了すると、天地真理はピアノがあるレッスン室に行ったので、高野がそこで写真を撮ったはずです」。
 岡さんは続けた「その時、英ロックバンド「シルバーヘッド」が来日していて新宿厚生年金会館でライブをする予定だった。僕が真理ちゃんに「シルバーヘッド、面白そうですよ」っていうと「行きたいなぁ、でも今夜は堺正章さんの公演が浅草であって行くのよねぇ」って答えたんです」
 天地真理は、TBSのテレビドラマ「時間ですよ」で堺と共演していた。
 「あとから高野に「バカ!天下の天地真理をデートに誘うやつがいるか!」って怒られた」と岡さんは笑った。

 当時の天地真理は飛ぶ鳥をも落とす勢いだった。従来のアイドルが手の届かない「スター」だったとしたら、より庶民的で一般のファンたちの手が届くのではないかと錯覚してしまうような親しみやすさは「隣の真理ちゃん」という呼び方にも現れていた。
 天地真理は「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「若葉のささやき」「恋する夏の日」などの大ヒットを連発し、1973年の年間ブロマイド売り上げでは堂々の一位を記録、キャラクターグッズも多数つくられるなど人気絶頂のアイドルだった。
 
スクールメイツ
 岡さんによると、当時、高速道路の下に「西銀座デパート」があって、その1階にナベプロが作ったスター養成学校にして若手タレントの登竜門「スクールメイツ」の連中が集う場所があり、そこでナベプロは記者会見もやっていた。
 「ランちゃん」こと伊藤蘭、「スーちゃん」田中好子と「ミキちゃん」藤村美樹からなる「キャンディーズ」もスクールメイツの出身だった。
 渋谷公会堂で開かれたフレンチ・ポップス歌手ジャンニ・ナザーロのコンサートに岡さんとカメラマンの高野さんは取材に行ったが、その前座がキャンディーズだった。高野さんはステージの袖に行って、キャンディーズの写真を撮っていた。

ムッシュかまやつがやって来た!
 「ミュージックリサーチ」は当初、「新橋の新倉ビルの4階と5階を借りていた。4階に編集部、5階ではアルバイトがコンピューターでレコード売り上げなどのデータを整理・編集していた。その隣のビルに喫茶店「メリー」があって、よく芸能人をそこで取材しました」(岡さん)。
 「メリーのママの旦那は劇団の主宰者だったこともあって、我々はよく取材に使っていた。桑さんもよくコーヒーを飲んでいた」。
 メリーの裏のほうで、「男はつらいよ」シリーズで寺男“源ちゃん”を演じていた俳優・佐藤峨次郎の奥さんが飲み屋をやっていた。新橋駅から歩いて3,4分のところ。「歩いているとよく峨次郎が新橋駅のほうからやって来て「よおっ」なんて声をかけられたものです」。
 「駅に行く途中にはライバル会社の「オリコン」があったのですが、中安は「オリコン」の近くに会社(「ミュージックリサーチ」)を持つことで睨みを効かせたかったのでしょう」。
 「ミュージックリサーチ」は一年くらい経って新倉ビルから、第一京浜を挟んだ道の向かい側にある柴機ビルの3階へと移った。
コーラスグループのダークダックスが訪ねて来たことがあった。
 また、元スパイダースで「我がよき友よ」がヒットしていたかまやつひろしが、ハンドルも含めて内部が木製の特注のミニクーパーを運転してやって来たこともあった。そのミニクーパーはかまやつがカメラマンの立木義浩から譲り受けたものだった。
 連日、マネージャーに連れられて新人歌手が何人も挨拶にきていた。
 「タレントたちがよく来たから、周辺の定食屋とかで「お宅はいったい何をやっているの?」とよく聞かれた」と岡さんはいう。

音楽評論家・田川律
 「ミュージックリサーチ」はそれなりに部数を増やして軌道に乗ったようにみえた。
 当時、社員の月給は「15万円くらい」で世間の相場よりもよかった。
 「ミュージックリサーチ」は「オリコン」を倒すことが目的だったが、競合誌はほかにもあった。その一つが「ミュージックラボ」で、音楽評論家の岡野弁(おかのべん)氏が事実上経営も含めて一切を切り盛りしていた。
 「ミュージックラボ」は「オリコン」とは違ってカネを業界からもらっていなかったので、きちんとデータに基づいてチャートの順位をつけていたようだと岡さんはいう。
 「ミュージックリサーチ」が他のチャート誌と違っていた一つは洋楽を扱っていたことだった。田川律という有名音楽評論家が洋楽担当として書いていた。田川は「ニューミュージックマガジン」を経てフリーランスになった。自らも音楽をするなど多岐にわたる活動で知られた。
 西田三郎が「オリコン」からやって来たあと、田川氏は切られてしまう。そして西田は「オリコン」から若手を連れて来て後釜に据えた。

去っていった桑原
 週刊誌で経験を積んできたライターたちを集めた「ミュージックリサーチ」は、「取材力がほとんどなかった「オリコン」」(岡さん)にとって脅威だったのだろう。
 しかし、「ミュージックリサーチ」は健闘していたものの長続きしなかった。それは西田の健康状態も影響していた。
 「西田が不遇だったのは、病気になって長いこと闘病を余儀なくされたことだ。それによって「ミュージックリサーチ」はダメになっていったと思う」と岡さんはいう。
 「オリコン」から1974(昭和49)年に引き抜いた西田は如才ない人で、おカネに関心がない桑さんとは合わなかった。
 「西田は営業スタッフ2人を含めて「オリコン」時代の手下たちを連れてきた。いろんな人たちが入って来た」と岡さんは振り返る。
 「そんな中、何となく桑さんが手を引くことになった。桑さんは事実上の編集長を2年くらいやった後、出入りしなくなってしまった」。
 「桑さんは当時の経理担当のイデさんという40過ぎの女性と親しく、中安や西田と関係なく、会社のおカネについての裏情報を全部彼女から得ていたと思う。イデさんは「桑原組」の味方だった」と岡さん。
 そこで得た情報も桑原を「ミュージックリサーチ」から足を遠のかせた一因だったのではないかと思われる。
   (続く)

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