「ドヤ街」山谷を歩く!
「日雇い労働者の街」と言われた東京都台東区の山谷。
かつてフォークの神様・岡林信康は「山谷ブルース」で山谷に暮らす労働者の投げやりな気持ち、酒を飲んでの回想、自負心、希望を歌にした。
1968(昭和43)年のことだ。
今日の仕事は辛かった
あとは焼酎をあおるだけ
どうせどうせ山谷のドヤ住まい
ほかのやること ありゃしねえ
(中略)
人は山谷を悪くいう
だけど俺たちいなくなりゃ
ビルもビルも道路も
出来ゃしねえ
だれも解っちゃくれねえが
だけど俺たちゃ泣かないぜ
働く俺たちの世の中が
きっときっとくるさそのうちに
その日にゃ泣こうぜ うれし泣き
そんな山谷を訪ねた。
まずは南千住駅を降りてすぐに浄土宗の延命寺がある。
ここはかつて「小塚原刑場」という処刑場だった。
明治初年の地図をみると、千住下宿から外れて一面田園風景のなかの一本道だったところだ。あたりに人家や人気がない場所だった。
小塚原は「こつっぱら」といい、南千住も「こつ」とも呼んでいるという。また火葬場にちなんで骨(こつ)としたという説もある。
江戸近辺では磔(はりつけ)、獄門、火罪、斬罪などを行う場所として、品川と浅草は仕置場として双璧だった。浅草の仕置場は最初小塚原の西側にあって、本所回向院の持地だった。
この地が処刑場になった年次は明らかでないが、いくつか点々としてきた結果だ。本所回向院の特地としてここを幕府から賜ったのは1667年のこと。1660年に牢死者や無縁の者を埋葬し弔うために建立した本所回向院が、それ以上埋葬するだけのスペースがなくなったからだった。
江戸時代から明治にかけて使われていた跡地がこの寺で、埋葬された死者の数は20万人になるという(延命寺のパンフレット「刑場跡周辺」)。
しばらく南に進むと「泪橋交差点」。ここにはもともと川が流れていて橋がかかっていた。小塚原刑場へと向かう罪人と家族たちが別れる場所だったことから「泪橋」と名づけられたといわれている。
さらに道なりに浅草方面へと南へ。
道沿いには安宿(ビジネスホテルなど)が並ぶ。
一番安い宿で一泊2000円を切っていた。
目立つのは「カラーテレビあります」、「冷暖房完備」の文字。
しばらく行くと老舗の天ぷら屋「土手の伊勢屋」の味わい深い建物が見えてくる。タイミング悪く定休日だった。1889年創業。現在の建物は1927年に再建されたもの。もう店の前は吉原への入り口だ。
2024年4月23日付朝日新聞朝刊の記事「マンション林立「ドヤ街」今は昔」によると、「山谷を含む下町一帯は太平洋戦争時の1945年3月、東京大空襲で焼け野原になった。簡易宿泊所街は、そこから大きくなった。復興や経済成長にともない、土木や建設事業を担う地方出身の労働者への需要が高まるにつれ、簡易宿泊所は急増」。
「東京五輪の建設需要に沸いた60年代前半には、220軒以上あった。だが、高度経済成長期が終わり、バブル崩壊を経て、今は約110軒に減った」。なお、山谷という地名は1966年の住居表示の変更で今はない。
山谷の安宿は今やインバウンドの外国人旅行客たちのかっこうの宿になっているという。また古い木造の宿のマンションへの建て替えも進んでいる。