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湯川れい子ミーハー宣言

 音楽評論家で作詞家の湯川れい子さんが「ミーハー宣言」をした。2023年7月2日(日)にライブハウス「六本木アビーロード」(東京都港区六本木5-16-52FORUMインペリアル六本木2号館B2)で行われた「ビートルズ来日公演記念トリビュート・イベント」でのことだ。
 イベントはまず、ビートルズ研究家の藤本国彦さんを聞き手にしたビートルズのトリビュート・バンド「メイフェア」をビートルズになぞらえての記者会見から始まった。実際のビートルズ来日の際の会見のパロディも織り込みながらユーモアたっぷりの受け答えだった。
 メイフェアはそろいの法被を着ていた。ビートルズが日本航空の飛行機からタラップを降りてきた時に着ていたからだ。そして何と一人(一番左)はロサンゼルスの古着屋で手に入れた本物だという。

法被を着たメイフェアの4人
法被の背中の「寿」を見せるメイフェアの皆さん

 そして、お待ちかねの湯川さんのトークとなった。
 湯川さんは1966年6月末から連続して計5回のビートルズの日本武道館公演を見ている。「女の子たちがキャーって叫んでました。女の子たちの声は小鳥のさえずりのようにきれいに聞こえるんですよ。それに対して警備員は座っているようにというんです。やきもちを焼いているんだなって気づきました。女の子たちのキャーっていうのは、自由でなんの悪意もなく方向性を持たないエネルギーなのです」と湯川さんは語った。
 湯川さんは言う。「女の子がキャーキャーっていうと赤ちゃんが生まれる、男がギャーギャーいうと戦争が起きるといいます。ここで私が一番言いたいことです。一番の財産をもらったと思っています」。
 ミーハーっていうとあまりいい響きがないようだけど、私は自由で方向性を持たないエネルギーの発露としてのミーハーならばミーハーでいいと思っていますと湯川さんは堂々の「ミーハー宣言」をした。

湯川れい子さん

 話はビートルズ来日に関する湯川さんが披露する裏話に移っていった。
 1965年、ミュージックライフの専務草野昌一さん、洋楽に日本語詞をつけた作詞家漣健児としても知られた人が「私に書き手として専属契約してくれないかというのです。当時のおカネで300万円。ああ、ビートルズが来るんだなって思いました。草野さんとしては、星加ルミ子さんと私の二人を自分のところで縛ろうと思ったのですね」と湯川さんは言う。
 ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインから日本に彼らを招聘することになるプロモーターの永島達司さんのところに電話がかかってきて「呼んでくれないか」といわれたそう。
 「ただ、武道館を貸してもらえるかどうかでした。当時、政治家は「あの薄汚い西洋乞食に武道館を貸すな」とかいうので一旦はキャンセルになったのです。永島さんは断って来るとロンドンへと発ったのですが、とんでもない違約金が発生するというので、やはりやらねばならないと」。
 ロンドンからニューヨークへ行った永島さん。「ニューヨークから帰るとその足で読売新聞社の社主正力松太郎さんのところに行って説得してOKをもらいました。そしてチケットを印刷する輪転機を回したと聞いています」。
 ビートルズの記者会見には湯川さんと星加ルミ子さんともう一人がやっと入れてもらったという。「ちゃんとした記者じゃなかった。それに記者クラブの仕切りだったからです。でも音楽関係の記者たちが彼女たちからいつも情報をもらっているのに(会見から締め出すなんて)おかしいじゃないかって抗議して入れてもらったのです」。

藤本国彦さんと湯川れい子さん


 湯川さんは思い出話を続けた。「ヒルトンでの会見が始まる前、ステージのカーテンの下が少し空いていて足が見えていた。星加さんと二人であれは誰の足だって言っていて二人でキャーとか言っていると翌日の新聞で叩かれました。「音楽業界の温泉芸者」だって」。

ヒルトンホテル真珠の間で会見するビートルズ


 湯川さんは読売新聞社からビートルズ来日特集号を出すので編集長をやってほしいといわれていた。ミュージックライフの草野さんに相談すると「絶対やりなさい」と言われて、「読売での取材の結果をミュージックライフに書いて下さいね」という話だった。
 とにかく来日特集号の編集長なので永島達司さんに話をつけようと、湯川さんは親友だった永島さんの秘書と話をした。そしてブライアン・エプスタインらビートルズサイドからもOKをもらう。
  しかし、ブライアンは「日本を含む極東ツアーの権利をタイムライフに一括して売っていた。永島さんに泣きつくと、ビートルズが帰国する前日に「彼らが腕章を欲しがっているから届けてほしい」と言われた。
 「茶封筒に腕章が4枚、そしてそれに隠すようにして一眼レフのカメラを持って(彼らが泊っているヒルトンホテルの)エレベーターに乗りました。今でもあの警備は忘れません。「この腕章を届けに来ました」といって10階のビートルズの部屋に連れて行ってもらって入ると黒いソファがあって、書き散らかされた絵があって、白黒テレビでは「アイ・ラブ・ルーシー」をやっていました」と湯川さんは振り返る。
 「みんなはご飯を食べていました。それが終わって真っ先に飛び出してきたのはポールでした。「君は誰?どこから来たの?」というので、私は「窓から入って来たのかしら。遊んでいっていい?」というとポールは「いいよ、いいよ。退屈してたから」と言いました」。
 「一枚絵をくれました。でも読売がビートルズ展をやった時に貸したら返してくれなかった。今でもどこにあるか分かっているんですが・・・」。
 「ポールが全部仕切っていました。「ジョージ、お茶を持ってきて」とか指示してね。そして「誰と写真を撮りたい?」と訊くのです。ジョンは意地悪で遠くにいて目が合うとパッとそらしてしまう。リンゴだけが可哀そうにうろうろしている。存在が可哀そうなくらい」。
 ビートルズ解散後、ジョンがヨーコさんと日本に来るようになって「あの時、あなたは意地が悪かったというとジョンは「あの頃にぼくらのところまで来れるのはコネとか権力を持ったものばかりでそういう人たちとは会いたくなかったんだ」と言いました」と湯川さん。
 湯川さんはヨーコさんから教えられたことがあるという。「ヨーコさんは1971年の段階で「世界の女性性をもっと大事にしないと世界は生き残っていけない」って言っていました」。
 ジョンが80年に殺された時の血まみれの眼鏡ですが、湯川さんは「私だったらすぐに洗ってしまうと思う。でもヨーコさんはそれをダコタのは部屋の窓枠に置いて写真を撮って、それを使って(ジョンが殺されて以降アメリカで)何人が銃によって殺されたのか数字をあげているのです」。


 亡くなる前にリリースされたジョンとヨーコのアルバム『ダブル・ファンタジー』の2曲目にヨーコの「キッス・キッス・キッス」が収録されている。「「抱いてよ」とか出てくるのでやめてよって思ってヨーコさんに率直に言ってしまったの。すると彼女に「わかってないのね」と言われました。人を殺す戦闘機や戦車が走る音よりも私の声のほうがいいでしょと」。
 湯川さんのトークが終了すると、メイフェアが再び登場。ビートルズの日本公演を再現するライブを披露した。演奏曲目はー「Rock and Roll Music」「She's a woman」「If I needed someone」「Day Tripper」「Baby's in black」「I feel fine」「Yesterday」「I wanna be your man」「Nowhere Man」「Paperback Writer」「I'm down」。

メイフェア こうすけと前田teacher和哉(右)
メイフェア こうすけと小熊正彦(右)
メイフェア 小原こういち


 

 
 
 
 
 

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