
週刊誌の時代の男たち⑯
第14章―桑原稲敏・泰子が離婚
1988(昭和63)年12月、桑原稲敏と泰子が正式に離婚した。泰子は53歳だった。慰謝料はなかった。
家は泰子の所有という「決着」だった。
保谷の家はもともと泰子の親戚の勧めで買った。昭和40年代前半当時で200万円だったそうだ。それまで泰子の弟の勉さんと後に妻になる女性ら親戚数人で暮らしていた。学校に通うための下宿だった。勉さんは東京経済大学に通っており、勉の兄の浩さんも同じ大学に通った。
最初は電話がなかった。しかし、仕事に必要だろうと電話を引いた。それまで歩いて7不分くらのところにあった酒屋の黒電話を借りに行った。
1973(昭和48)年、庭にプレハブを建てて稲敏の仕事場にした。エアコンを家で初めて入れた。
こたつがあり、本が積み重ねられていた。煙草の煙がよくないからと換気扇もつけた。プレハブの外には棚がしつらえてあって、新聞の束がいくつもあった。稲敏は思い出した時に切り抜きをしていた。
稲敏の部屋には本や雑誌がところ狭しと積んであった。スワッピング専門雑誌といったエロ雑誌もあった。
小説「二人のラブジュース」
そんな中に季刊「フォークリポート」という雑誌があった。その最初の号「冬の号」に「二人のラブジュース」というタイトルの小説が載っていた。
だがその雑誌はわいせつ容疑で押収され、筆者のフォーク歌手・中川五郎さんはわいせつ文書販売同所持事件の被告となり7年間、裁判を闘うことになる。結局、5万円の罰金で有罪となる。
そんな「歴史的わいせつ小説」が掲載された、今や貴重な雑誌も稲敏の部屋には無造作に置かれていたのだ。
その表紙は緑鮮やかな草原に男の子と女の子が全裸で立っている写真だった。
桑原稲敏と泰子との関係のことに話は戻る。
泰子は「離婚を決意したのは不倫が原因ではない」と強調していた。
泰子には稲敏の仕事のパートナーとしてのプライドがあって、共に歩んできたという「同志」「戦友」的な気持ちがあったようだ。だからこそ次のような言葉が出たのだろう。
「私が切れたのは稲敏さんから「お前には何も手伝ってもらったことはない」と言われたことで、それで切れた」と。
それでもその段階ではまだ「新潟のおじいちゃん」の面倒を嫁としてみないといけないと思っていたらしい。
桑原稲敏と服部みゆきの結婚
桑原稲敏と服部みゆきさんは1990(平成2)年6月に結婚した。稲敏50歳、みゆきさん30歳の時だ。同年12月には長女が生まれた。
家庭があまりにも混乱を極め、友人たちの中には距離をおく者も出たようだ。そして、昭和から平成の始まりを経てからは桑原の仕事のペースが変わったようだった。
〇1991(平成3)年、「ナイショ ナイショ銀座ママのとっておきの話③」(サンマーク出版)ーー「夜の銀座ネオン街を舞台に男と女が火花を散らす・・・」と帯にはある。

全10話の構成で順番に「ママはみんな“女狐”ョ」「“ハゲ”を求めて3千里」「銀座でモテる法、教えるわ」「銀座で遊ぶ資格ないわよ」「若いツバメは欠かせない」「アゲマン&サゲマン」「泣き笑いの財テク秘話」「銀座風ストレス解消法」「珍談、奇談あれこれ」「銀座暮らしはやめられない」。
桑原は「はじめに」でこう書いたー「「お店で1日3時間、ウソをつくのも仕事のうちよ」と某古参ママがいうように、彼女たちはマスコミのインタビューにも、艶やかな笑顔でタテマエのきれいごとを並べる。特に自分の男性関係を赤裸々に語ったり、パトロンの存在を明かすことは最大のタブーで、その告白はたいてい粉飾決算と思って間違いない」
「本書では、そうした銀座ママたちの仮面を剥いで、笑顔の裏に秘められたびっくり仰天の素顔に肉迫し、ざっくばらんに“ナイショ話”を語ってもらった」
「あなたが銀座ネオン街で遊ぶ際、その“参考書”にでもしていただければ幸いです」。
〇1993(平成5)年、「女たちのプレーボール」(風人社)ーー かつて日本にあった女子プロ野球チームのことを書いた作品だ。

1993(平成5)年7月18日付「新潟日報」に掲載された共同通信の配信記事は桑原とのインタビューで本の紹介をした。
前述のように、執筆の直接のきっかけは1982(昭和57)年に女子プロ野球生みの親、小泉吾郎氏と出会ったことだった。
「まだ娯楽の少ない時代だったので、どこでも観客が押し寄せたそうです。地方巡業の劇団のように見られていたことは選手たちも知っていたようですが、彼女たちはひたすら野球に打ち込んでいた」と稲敏は語っていた。
この取材はかなり以前に始めたもので、週刊平凡」に1984(昭和59)年に連載した記事がもとになっていた。だから泰子は「私と暮らしていた時の取材で、私も協力していたから、悔しい」と話していた。
〇1997(平成9)年、「切られた猥褻」(読売新聞社)ーー映倫が戦後どのようなものを「わいせつ」とみなして検閲でカットを命じ、あるいはOKを出してきたのかを詳細に追いかけた本で。スポーツ紙の連載をまとめたもの。

桑原は「週刊新潮」(1993(平成5)年11月18日号)に「映倫の規制から見た映画史を残すのが長年の夢で、昭和40年代から資料を集めていました」と語っている。
エピソードも豊富だー「昭和20年代は、キスも混浴もご法度。布団に枕が二つ置いてあるだけでカットされた。昭和33年の「オンボロ人生」では、ポスターが使用禁止の憂き目にあう。娘が焼芋を手に佇んでいるが、下腹部の辺りにある焼芋がセックスを連想させるからとか」。
こうやって作品の数々を見てくると、新たな取材の成果というよりは、昔から温めてきて一回書いたネタをいわば「集大成」として形にした時期だったように映る。
「ワイドショー講座」
その頃、桑原は「噂の真相」で「ワイドショー講座」という1ページまるまる使ったコラムの連載を始めた。これは亡くなるまで続いた。他の芸能記者や評論家では書けない独自の切り口でのコラムを書いていた。
例えば、1993(平成5)年4月号には「水の江瀧子の生前葬の裏の仕掛け」というコラムを執筆。
水の江は女優にして映画プロデューサー。「ターキー」のニックネームで知られた。「男装の麗人」として人気を博した。
「この催し(生前葬)は生前葬に名を借りた「出版記念会」兼「水の江瀧子を励ます会」だったのかもしれない。ワイドショー番組や芸能マスコミは、その巧妙な宣伝イベントにまんまと踊ったことになる」と桑原は喝破した。
同年6月号のコラムの見出しは「芸能人浮気騒動にみるマスコミの”正義“感」。当時、話題になっていた渡辺徹、片岡鶴太郎、ウッチャンナンチャンのナンチャンこと南原清隆の女性関係が発覚し相次いで釈明会見を開いたことを取り上げている。
そして「現行の結婚制度では”不倫“は社会的な「ルール違反」であろう。しかし、その「ルール違反」は倫理とはまったく異次元の問題である。それをモラルで断罪し、彼らに謹慎や釈明を強いるテレビの報道姿勢には、かねてから憤りと懸念を抱いている」と書いた。
報道の“仁義”
さらに同年7月号に掲載されたのは「美空ひばりをめぐるタブーと報道の”仁義“」というコラムだ。
これは美空ひばりに異母妹騒動について書いているのだが、この件はすでに様々なメディアで報じられており、そのことに触れるのがメディアの仁義なのではないかと主張している。また、美空ひばりが亡くなった後、彼女の堕胎事件を某ワイドショー番組は”スクープ“として伝えたが、これはかつて国民タイムスに報じられたものでここでもそれに触れぬ倫理感を問題視している。
同年10月号では「なぜ芸能ニュースの穴埋めは松田聖子の“離婚説”なのか」と題して、芸能ニュースが夏枯れとなると「いつも“穴埋め”に登場するのが松田聖子、桜田淳子、中森明菜らの話題だ。芸能マスコミにとっては「困ったときの聖子、淳子、明菜頼み」である。
松田聖子は離婚危機騒動、桜田淳子は統一教会がらみと妊娠説、そして中森明菜は大麻疑惑だったが、彼女たちはいずれもマスコミの取材に応じない。ずっと鳴りを潜めているから、憶測や伝聞による好き勝手な報道もできる、いわば“書き徳”“放送徳”というわけ」と書き、芸能マスコミのご都合主義と安易さに刃を向けたのだ。
ちなみに松田聖子と神田正輝の結婚騒動について桑原は月刊「創」の1985(昭和60)年9月号で「芸能界で権勢誇る“石原軍団”の実態」と題して、マスコミ操作で「聖・輝の結婚」ドラマを「石原プロの、石原プロによる、石原プロのため」のショーとして、創り上げた実態を暴露していた。
(続く)