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マルが記憶する日本でのFAB4

 【スピリチュアル・ビートルズ】ビートルズ・ファン待望の本が登場した。そう、ビートルズの側近マル・エバンスの残した日記などをもとにまとめられた「Living the Beatles Legend The Untold Story of Mal Evans」(DEYST) である。
 マルの遺族から資料を提供されてまとめたのはケネス・ウーマック。ウーマックはビートルズ研究家で米ニュージャージーのモンマウス大学教授。エバンス家と協力して、およそ15か月かけてマルの生涯の詳細をまとめた。ハードカバーで約580ページの大作で貴重な写真も多数掲載されている。
 マルの息子ゲイリーは声明で、「ケン(ウーマック)は父がビートルズの最高の友人だったことを私に示してくれました。父がビートルズに出会ったことは幸運でしたが、父が初めてキャバーンの階段を降りたことによって、より一層ビートルズも幸運に恵まれるようになったのです」と語っていた。
 日本語版については、筆者に対してウーマック氏は以前メールで回答を寄せ、「私のエージェント(代理人)が資料を含むすべての刊行物の日本語への翻訳権に関して話を進めていることは間違いありません」と書いていた。

 

 全体の紹介はネタバレということもあるので控えて、今回はマルによる1966(昭和41)年のビートルズ来日についての記述を紹介したい。
 マル・エバンスってどんな人だったのか。「ザ・ビートルズ人物大事典」’(日経BP社)によると「電信技士として勤めていた電話局がキャバーン・クラブに近く、常連客となった。身長約190センチの立派な体格だったため、ジョージの提案で本業の空き時間に店のドアマンをすることに」。
 「63年1月には、ニール・アスピナールの代理でビートルズをロンドンからリバプールまで車で連れ帰る役割を果たした。途中、バンのフロントガラスが割れてしまったが、ひたすら運転し、夜のキャバーンのステージに間に合わせた。また、翌日のウェールズ公演へ出発する時間までに、ガラスを替え準備万端整えたマルを、一同は信頼できる存在だと確信したという」。
 「正式にビートルズのローディ兼アシスタントになると、移動の世話や、機材やステージ衣装の管理に加えて、食事の調達、用心棒、面会人の選別、メンバーのひらめいたアイデアを書きとめる役、酒の相手など、公私ともに4人が快適にすごせるように心を砕き、あらゆる仕事をこなした」。
 「68年にアップルが設立されると実質的な仕事は変わらないものの重役の肩書が与えられる。また、バッドフィンガーなどのレコーディングに立ち会い、プロデューサーとしてクレジットされた。しかしアラン・クラインの介入により70年に解雇となる」。
 長くなったが、再びマルの本に戻ろう。
 ビートルズが日本にやって来たのは66年6月のことだった。ビートルズ一行の中で、マルは日本文化を吸収しようとした最初のメンバーとなったという。マルはもっと強いアルコールが好きだったが、まずは日本酒を試した。リンゴが「どう?」って尋ねると、マルは「ワインとは違うね。それにスコッチとも全然違うよ」と答えた。
 すると、マルとリンゴのやり取りを聞いていたジョンは「よくわかったよ。ありがとう、マル」と話したという。
 宿舎となったキャピトル東京ホテルのスイートの部屋で、「僕たちはとってもきれいな数名の芸者ガールたちと一緒にいられてとてもうれしかったよ。彼女たちはそれぞれが美しい絵画のようであり、非の打ちどころのない磁器のようだった」とマルは回想した。

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 日本武道館には「警官が大勢いた。そして観客は、あまりないことだけど静かだった。長いことやっていて初めてだけど、観客はビートルズの演奏する音を聴くことが出来た。叫び声もなく、驚きだった。(静かだったので)バンドは音が外れていることにも気づいて、音を合わせなければならなかった」とマル。ビートルズには「ちょっとショック」な経験だった。
 マルが四谷にあった「外国人専用のお風呂」を楽しんで、4人に話したところ、みなが興味津々で、中でもポールが連れて行ってほしいというので二人でホテルを脱出したことがあったという話がある。その「脱出事件」について新刊では触れているものの「お風呂」の話は出てこなかった。
 今回の本の表紙に使われている写真は四谷のお風呂行きを断念した(?)2人が、代わりに皇居の二重橋付近で歩いている写真だ。人によってはお風呂を楽しめなかった「ポールがふてくされている」と評している写真だ。
 マルの本では日本滞在については実質2ページの記述だった。
 マルは回顧録をまとめ、ビートルズの4人全員の許可を得て、70年代半ばに出版する予定だった。だが、76年1月、マルはロサンゼルスの自宅での酒を呑んでのもめごとの最中に警官に射殺され、刊行は頓挫していた。
 この本について2021年12月5日付英オブザーバー紙が伝えたところによると、ウーマック氏は提供されたマルの日記から新たにわかったこととして、69年1月30日のアップルビル本社屋上でのいわゆるルーフトップ・コンサートの日のエピソードを明らかにしていた。
 屋上でのライブ演奏によって近隣住民から騒音被害の苦情などが寄せられたため、「マルは実際に逮捕されていた。でも難を逃れることが出来たのはグループのPRマンであるポールが警官の気持ちを変えさせたからだ」。

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