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ジョン・レノン 1940-80




 1980年12月8日、ジョン・レノンが亡くなった。のちに米タイム誌はカバーストーリーでジョンの死を特集して「音楽が死んだ日」との見出しをつけた。日本時間では同9日のことだった。
 同年夏、ジョンが妻オノ・ヨーコとともに5年間の沈黙を破り、ミュージック・シーンにカムバックするとのニュースが流れてきた。75年に2人の間に息子ショーンが誕生すると、ジョンは「主夫」になって、パンを焼いたり、子どもの面倒を見たりしていた。
 78年ごろ、ビートルズとその4人のメンバーのファンになった私は、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの作品を聴くとともに、ジョンのそれまでのアルバムを繰り返し聞いていた。
 ジョン復帰の知らせに歓喜したことを覚えている。その年の10月23日、ニュー・シングル「(ジャスト・ライク)スターティング・オーバー」が米国でリリースされた。米ビルボード誌のヒット・チャートには11月1日付で38位に初登場した。レノン夫妻の新作アルバム『ダブル・ファンタジー』が11月17日、同国で発売されると、新曲はヒット・チャートを順調に上昇した。
 私は11月24日、学校の友達が前日に東京の保谷市(当時)のひばりが丘にある西友の輸入盤コーナーに『ダブル・ファンタジー』があったというのを聞いて、早速学校帰りに入手した。
 日本発売は12月5日の予定だったが、待てなかった。繰り返しアルバムを聴いては、付属の英語の歌詞カードを一生懸命に訳した。とりわけ印象的だったのは「ウォッチング・ザ・ホイールズ」の歌詞だった。楽曲ではヨーコの「喘ぎ声」がフューチャーされた「キス・キス・キス」には参った。
 同8日(日本時間9日)、レコーディング・スタジオから出たジョンとヨーコは遅い夕食をとる前に「ショーンの寝顔を見るため」に自宅のあるダコタ・ハウスに戻ったが、そこでジョンを凶弾が襲った。数発の銃弾を至近距離から受け、ほぼ即死状態だった。
 同9日、昼頃から「ジョンが撃たれた」というニュースが日本のメディアでも流れ始めていたという。高校にいた私には知る由もなかった。学校からの帰路、本屋に寄って、篠山紀信氏が撮影したジョンとヨーコの写真が表紙の写真月刊誌「写楽」を買った。
 家に着きしばらくすると、ビートルズ・ファンの友人Kから電話があった。夕方の4時過ぎだったと思う。Kはいきなり「ジョンが死んだって」と言った。私はいつも冗談ばかり飛ばしているKのことだから、私を悪いジョークで担ぐつもりかと思ったが、Kは真面目な声で「本当だよ」と答えた。
 私はテレビのチャンネルを回したが、どこもジョンの死を伝えるニュースをやっていなかった。思いつきでFEN(米軍放送)の810キロヘルツにラジオを合わせた。すると流れてきたのがジョンの「アウト・ザ・ブルー」という曲だった。ラジオでかかることは考えにくいアルバムの中の一曲であるその歌を耳にして、私は初めてジョンの死を悟ったのだった。
 夕方、ジョンの死を伝えるニュースを見た。ポールの顔が大写しになった「ヘイ・ジュード」の画像を流しているテレビ局があって、がっかりした。人に聞くと「イエスタデイ」を流したラジオ局もあったという。
 ジョンの死後、トップ10入りはしていたもののやや伸び悩んでいた「スターティング・オーバー」がチャートを急上昇し、12月27日には、ジョンのソロ2作目となる全米首位の座を獲得。そして5週間その座を守った。


 


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