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週刊誌の時代の男たち⑩

第5章―桑原稲敏と泰子
 桑原稲敏と牧田泰子が結婚に至るまでには紆余曲折があったようだ。二人が知り合ったのは、泰子が正社員として働いていたパイオニアのデザイン研究所に桑原が明治大の仲間に誘われてアルバイトに来たことからだった。
泰子の女子美での専攻が造形で、それを活かしてデザイン研究所では石膏を使ってマネキンの型を作る仕事をしていた。
 泰子の女子美時代からの友人、佐藤(旧姓水野)由喜子さんによると、彼女が泰子をデザイン研究所に紹介し、泰子は「桑原さんとはマネキン人形のところでお会いしたんですよ。私が女性の首の彫刻をやっていて、あと泰子さんも作業をやっていた」。
 泰子はボーイフレンドと桑原を含めた「3人でよく遊んだものだ」と話していた。泰子がそのボーイフレンドと別れると、「稲敏さんは私の浜松の実家に来て両親に「泰子さんを嫁にください」と言ったんです」
 「両親は私(泰子)には「耳に不自由なところがあるけどいいのか?」と聞くと稲敏さんは「かまわない」と答えたそうです。私はしばらくの期間、考えたけれど、稲敏さんは真面目だからいいのではないかと思って、彼のプロポーズを受けることにしました」
 
 泰子は1936(昭和11)年生まれで桑原稲敏より3つ年上。桑原はまだ明治大学の学生だった。
 
 稲敏がフリーランスで働いていたこともあって、生活は楽ではなかった。
 長男は練馬で生まれたが、毎日その頃住んでいた桜台から隣の練馬まで泰子は長男をおぶって買い物に行っていた。
 練馬で必ず買ったのが、ばら売りされていた卵一つ。子どもに栄養をつけさせてやるための日課としての買い物だった。
 少し後の話になるが、府中にいる頃、すなわち1966(昭和41)年、家は米国人夫妻とトイレなどを共有する造りになっていた。
 泰子は大家と交渉して家賃をまけてもらうため、トイレなどの共有スペースの掃除を請け負ったそうだ。大変な思いをしていたものの、そこを住処に選んだのは、稲敏の仕事に必要な電話があったからだった。
 だが、貧しくとも幸せだった。

とうさん、おだかけ、てをあげて
 埼玉県大和町に暮らしていた1965(昭和40)年、長男はまだ2歳になるかならないかという時期。
 毎朝、稲敏が出社するために最寄り駅に行くのを泰子は長男と一緒に見送りに行った。
 長男は乳母車に載るのを嫌がって自分で乳母車を押したがったそうだ。とにかく、家族3人で田舎道を駅に向かって歩いたそうだ。
 駅に着き稲敏が入っていく時、長男は毎日、毎回、「とうさん、おだかけ、てをあげてえ、バイバ~イ」と大声で叫んでいたそうだ。
 毎日のことだった。
稲敏はいつも恥ずかしおそうに改札に隠れるように消えていったという。
 貧しくとも幸せな家族があったのだ。
 ところが知らぬうちにそんな家族にも影が忍び寄って来ていたようだ。
 泰子の高校時代からの親友、中島恵子さんはこんなことを話してくれた「結婚した後、泰子さんは自分の相手はすごく忙しい人だし派手な芸能の世界と関わっていることもあってか、「ちょっと不信感を持っているのよ」と言っていた」。
 「でも彼女は「男の人は外で働いているので、(家庭の)中からそういう話が出ると困るだろうから他の人には言わないでほしい」と私に言いました」。
 不信感ということについて、恵子さんは「私は泰子さんの人となりを知っていたので不釣り合いではないかと思って、どこでいったい知り合ったのだろうと疑問だった」という。
 「ご主人が芸能の世界の取材をして、家でその話をしていると聞いて、どういう顔をして聞いているのだろうと思っていた。でも重々しく静かに話してくれたので普通に。ご主人への不信感のことはちらっとしか表さなかったが、「わからないことがある」とは言っていた」。

生まれ育った環境のギャップ
 二人の育った環境のギャップがあまりにも大きすぎたのではないだろうか。桑原は田舎の貧農の息子。泰子は、かつては地主で金貸しもしていた由緒ある家の生まれ育ちで泰子の父は学校の先生だった。
 気候の差も性格の形成に影響していたかもしれない。
 桑原が育ったのは新潟の雪深い田舎で、11月になると空が暗くなり「いつ雪が降りだすだろうか」とみんな気持ちが暗くなるのだという。山のほうにはゴールデンウィークぐらいまでは残雪があるぐらい雪に閉ざされる期間が長い地域である。
 一方、泰子が育ったのはJR浜松駅と浜名湖畔の温泉地・舘山寺との間に位置する村だ。温暖なエリアで柑橘類の栽培が盛ん、そして以前ほどではないが今も鰻の養殖が盛んだ。
 桑原の実家の貧しさも半端でなかったらしい。そこから抜け出したい気持ちがあったのだろう。桑原の両親はおカネには縁のない人たちだった。
 桑原稲敏の弟・幸雄の妻・栄子さんはいう「新潟の家では田植えの頃になると近所では人が手伝いに来るという。そうするとうちにカネをくれといつも言ってきた」
 「結婚して二人で何とかやっていて、私も働いていて、ギリギリの生活だったにもかかわらずなんです。そのおカネを工面するために、私は自分の実家に泣きながら電話をして頼んだものです。買い物もよく頼まれました」と栄子さんは証言する。
 しかし、桑原がおカネや物品を田舎に送ったという話はなかった。
桑原稲敏の妹・半戸清子さんはいう「一銭たりとも送ってきたことがなかった。(泰子さんが)財布を握っているって言っていたけど。保谷の家を出た時も5000円しかないって言っていた。それにあの時はこちらから布団を送ったぐらいだった」。
 だから、泰子の舅姑は嫁がぜいたくをしていて、そのため稲敏が自由になるおカネを持っていないと勘違いしていたのだろう。
 桑原は故郷に錦を飾るようなつもりはなかったようだ。結局、有名になって親、特に母シゲを喜ばせたいとは思っていたようだが、自分で自分の好きなことを自分が好きなようにやりたいという、その一点だけだったようだ。
 泰子がある時、家を改築したいと相談すると桑原は「俺はカネをかけるとしたら自分にしかかけない」と断られたそうだ。
 桑原が芸能記者・評論家としてまだ出世する人だと思っていたので家をきちんと整えておかないとみっともないという気持ちが泰子にはあったという。
 
第6章家庭内暴力
 桑原稲敏は虫の居所が悪い時、特に女性問題を泰子に詰問されると暴力をふるった。泰子を怒鳴りつけ、殴る蹴る、今でいうDV(ドメスティック・バイオレンス)だった。
 最初のドメスティック・バイオレンスだと思われるのは、仕事仲間の女性と関係ができて、新宿区中井にアパートを借りて二人で暮らす、いわば「二重生活」をしていた頃のことだ。
 それを責められると桑原は暴力をふるい、腹を蹴られた泰子が吐血し、数日寝込むことがあった。長男の亘之介が食事を作り、泰子の枕元まで運んでいたという。
 家に帰らないこともしばしばだった。次男の英介は幼かったが子どもなりに、いや子どもだからこそ心を痛めていたようだ。泰子が稲敏に手紙を書いたことがあって、そこには英介からのメッセージもあった。

次男が託したメッセージ
 「稲敏さま 用事がありますので出掛けます。台所に食事の用意がしてあります。英介から昨夜たのまれていたことを書きます。お父さんにあったら、顔を忘れるといけないから時々あえるようにお話をしてほしい。又ヤドをきめるときはぼくのうちの近くにしてほしい。時々行けるから。お父さんの一番大好きなところは約束を必ず守ってくれること。くだものをかって来てくれると云ったことも守るから。ケンカにならないようにおはなしをしてね。英介にめんじて何とか良い方向に解決出来るように私も考えています。貴男がほんとうにいなくなるということがどんなものか大変なこととは思いますが、今は何とも申せません。現実的にどうにもならないきびしさも承知の上でされたことでしょうが、子供の姿をみていると非常に複雑な気持ちでなりません。あなたも同じ気持ちだと思います。英介君のところへ毎日帰って来てやって下さい。これは私からのお願いです。泰子」。
 
 この手紙は桑原稲敏の死後、遺品の古い電話帳に折りたたんだ格好で挟んであった。何十年、桑原はこのメモのような手紙を取っておいたのだろうか、きっと思うところがあったのだと思う。

 桑原の泰子への暴力があまりにも酷いので長男・亘之介が思わず「死ね!」と怒鳴ったことがあった。稲敏は泣いた。そして家を出て行こうとした。その稲敏を泰子が追いかけたことがあった。
 二人の諍いは単なる「不倫」だけが原因だったのではなかったのだろう。
二人の育った環境の違いも大きく影響しており、稲敏は泰子に「劣等感」を抱き、泰子は稲敏に「優越感」、いいかえると「水飲み百姓」の父の実家と「学校の先生」の自分の親とを比べて、「見下す」気持ちがどこかにあって、それを稲敏は敏感に感じ取っていたのではなかろうか。
 
長男かつ初孫をめぐって
 それと長男・亘之介を巡っての泰子と姑つまり稲敏の母・シゲの間の「女同士の闘い」も背景にはあったようだ。
 シゲや巳之松は初孫だった亘之介をずいぶんとかわいがった。小学生の頃、毎年夏休みになると新潟の田舎でおよそ1か月間過ごしたていた。
 ある時、帰京する支度をしている際に、亘之介が「帰りたくない。新潟の子どもになりたい」とぐずったことがあった。泰子は困り果てた。
 東京に戻った後、シゲから泰子に電話があって「新潟の学校に行かせます」と言ったそうだ。泰子は「何て非常識なの」と怒りを隠さなかった。
 当時は子どもだったがその「一人の男」をめぐっての二人の女のライバルとしての争いの面はあっただろう。
 こんなこともあった。
 桑原の父・巳之松が膝を悪くして東京の昭和病院で入院手術を受けることになった。そのためつきそいのシゲが息子・稲敏の家に泊まることになった。そこからシゲは巳之松のもとへと通う。
 だが泰子はシゲが持ち帰る巳之松の洗濯物を家で洗うことを許さなかったと桑原の妹・清子は話す。「そのせいでおばあちゃん(シゲ)はコインランドリーで洗濯したんです」。
 そして数日後、シゲは泰子に追い出されて、稲敏が近くにアパートを借りて、そこから病院に通うことになったそうだ。
 何年か後のことだが、今度はシゲは盲腸をこじらせて、それが原因で亡くなるが、その治療のために津南病院に入っていたことがあった。
 親戚が交代で付き添いに当たった。泰子もその一人だった。だが、あとからシゲは「泰子はやめてほしい。殺される」と稲敏らに訴えたそうだ。
 二人の間の溝は考えられぬほど深かった。
 繰り返しになるが、これは二人の女つまり泰子とシゲの二人の男つまり稲敏と長男・亘之介をめぐる闘いだったのではないか。
 そしてそれが稲敏の泰子に対する態度を決定づけていたのではなかろうかそれは暴力をも含めてのことだったのだろう。 
 
世間体が悪いから
 泰子によると、稲敏は外に女性が出来る度に新潟に電話をして母親のシゲに「泰子と別れたい」と泣きついていたそうだ。
 シゲの答えはいつも「世間体が悪い」だったらしい。巳之松は根っからの百姓で学業という点では無学だったので、稲敏はシゲに対するのとは違って、最初から巳之松のことは相談相手と見ていなかったようだ。
 泰子はほとんど友人にも相談しなかった。
 女子美の同級生・上野郁子さんは「彼女が苦労しているっていう話もあったような気がする。なにせ彼女は大人だったので、お父さんのことをいろいろと許していたんではないか」と話す。
 度々、稲敏は激しく暴力をふるった。息子二人は2階に部屋があって、下が居間だった。下で争いが始まると長男は部屋で耳を凝らして、暴力騒ぎが始まるや下に降りて行って、二人の間に割って入って止めようとした。いつも稲敏はそんな長男に言ったー「いいから」と。
 泰子は生まれつき片耳が不自由だったが、稲敏は泰子の悪いほうの耳を狙って殴ったり蹴ったりしていたことだ。悪魔の所業、残酷すぎた。
 泰子は言った「よくない方の耳を狙って殴って来た」と。それでいつも泰子は頭を手でかばって体を丸くして稲敏の暴力に耐えていたという。
 泰子は生まれつき片耳がなかった。本人は悩むことはなかったらしいが、子どもの頃は「耳なし」などとからかわれたらしい。本人は笑い飛ばしていたという。
 悩んだのは泰子の父・牧田良一だった。当時のおカネで100万円かけて慶応病院で耳を作る手術をした。耳があるべき場所に穴をあけて人工の鼓膜をつけるという手術。
 結局、聞こえるようにはならなかった。
 水泳が得意でよく浜名湖で泳いでいた泰子はその後、泳ぐことができなくなってしまった。手術した方の耳に水が入ってしまうといけないからだ。
 泰子はよく言っていた「そんな大金をかけるなら、お父さん(牧田良一)は私にくれればよかったのに」と。
 稲敏の暴力は、1981(昭和56)年に稲敏の母シゲが亡くなると、「「歯止め」がかからなくなり、暴力もエスカレートした」と泰子は語っていた。
   (続く)

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