週刊誌の時代の男たち⑪
第7章―新宿ゴールデン街
ここでは、桑原が毎晩のように飲み歩いていた新宿ゴールデン街との関係がよく分かる エピソードを紹介したい。
現在、およそ2000坪(6600平方メートル)の狭いエリアに280軒以上の小さな飲み屋が集まっている。
新宿ゴールデン街の起源は戦後の混乱期に出来た闇市で、その後、違法の売春地帯「青線」となり、1958(昭和28)年の売春防止法施行までは都内屈指の売春地帯だった。
青線がなくなった後、飲み屋が密集するエリアとして発展してきた。
新宿ゴールデン街商店街振興組合によると、1960~1970年代前半の政治の季節の頃は新宿ゴールデン街・花園街の店は、文壇バー、ゲイバー(特に女装バー)、ぼったくりバーの3つに分類できるともいわれていた。
店内は3坪または4.5坪と狭く、カウンターに数人並ぶと満席になる。文壇バーとよばれる店が増えて、作家やジャーナリスト、編集者、映画関係者らが集まり、熱い議論や喧嘩を繰り広げる場所でもあり、新宿文化の中心地としてにぎわった。
新宿文化の中心地
まさに桑原たちは、その新宿文化の中心地で夜な夜な酒を飲みつつ情報を交換しつつ交友を深めていたのである。
桑原は飲んでカネがなくなると朝方、家に電話して来たそうだ。
そして新宿からタクシーに乗り、一方、泰子は時間を見計らって新青梅街道の交差点のところで待っていて、無一文の桑原の代わりにタクシー代を払ったものだという。
さて、桑原たちが通っていた「銭」(ぜに)という飲み屋のママが病気で倒れた。そこで店を頼まれたのが「噂の真相」編集長の岡留さんと桑原だった。
岡留さんは著書「「噂の真相」25年戦記」(集英社新書)に書いたー「身寄りのない「銭」という店のママが倒れて入院したために、そこの常連客で芸能評論家だった桑原稲敏氏に頼まれて、「マガジンハウス」と改名し影のオーナーとして3年ほど店を経営したこともあった。ライターや編集者、コピーライター、ポルノ女優といった本業を持っている女性達に日替わりで一日ママをやってもらったのである」。
桑原は知り合いの女性を「銭」のカウンターに入れて協力していた。
その女性のうちの一人が高田英子さん。
彼女は、桑原の弟子で雑誌「スコラ」の高田泰治・元編集長の妻である。二人とも学生時代から父の友人だった。
家庭教師を頼む
高田泰治さんが早稲田大学社会学科の学生だった頃、桑原は高校生だった次男・英介の家庭教師を頼んだ。
九州から出て来た「貧乏学生」を助けるというのが主目的だったのだろう。家に来ると高田「先生」にはまずは瓶ビールが出され、それから食事という定番コースだった。
最初にアルコールが入るわけだから、家庭教師中、よく居眠りをしていたらしいが、それもやむをえないだろう。
桑原は意に介せず愉快気に笑っていた。これは、桑原がいかに若手たちの面倒見がよかったかという一つのエピソードだ。
英子さんはいう「「銭」のママが入院している時に、桑さんと一緒に店のカウンターに入った。1983(昭和58)年だったと思う。私は外資系の社員で、27,28歳でした」。
「桑さんは「銭」の鍵を持っていた。店に入る時には夕方に先生とデパ地下で待ち合わせて、おつまみを買い出ししてから店にいった。つけものとか買いました。当時はみな煙草を吸っていた。煙草は利益にならなかったけれど、欲しい人がいるのでと言って先生が自ら立て替えて買っていた」。
そして二人で「「銭」のママが元気になるまで頑張ろうと話していたんです」。が、「銭」のママは1984(昭和59)年に亡くなってしまった。
英子さんは「「銭」ではただ働きだったが、楽しかった。一銭ももらわなかった。桑さんに「手伝ってくれないか」と言われ、面白そうだと思ったのでカウンターに入ったんです。その分飲むのはタダでした」と話した。
ちなみに「銭」という店名は、ちあきなおみの「喝采」の作詞者・吉田旺氏の命名だった。
「銭」のママは働きすぎだったのではないか。岡さんによると、店が終わるとママはカウンターに突っ伏して仮眠を取り、始発で荻窪のアパートに帰る毎日だったという。独り身だったそうだ。
パンパンのダンプ
他にも桑原は多くの店で飲んでいた。例えば、「まえだ」、「一力」(いちりき)、「小茶」(こちゃ)そしてその隣にあった「呉竹」(くれたけ)などだ。
前園さんによると、「呉竹」の常連に「ダンプ」というパンパン女がいて、店に電話が入ると出かけていく。そして20分とか30分とかすると帰って来る。一回3000円だと話していた。
また「呉竹」には流しがよく来た。「よく流しを呼んだけど、桑さんは大先生だからタダで歌うんですよ」
「ゴールデン街の裏に流しの組合の事務所がありました。“マレンコフ”という男の流しがいて、歌がすごくうまかった。何千曲と知っていたと思います」と松園さんは話した。
岡さんも証言する「「呉竹」には東京12チャンネル(現テレビ東京)の音楽番組のディレクター工藤忠義さんも飲みに来ていた。工藤さんは作詞家でもあってペンネームは神坂薫だった。森昌子の「おかあさん」や三善英史の「円山・花町・母の町」などの作品を手がけていた」
「工藤さんが「呉竹」で飲んでいると、”マレンコフ“とか”やまちゃん”といった流しの連中は緊張して「一曲歌わせて頂きます」となったものです」。
「工藤さんは先生なわけだから、流しの連中にしてみれば、うまくいけば、テレビに出るとか、売り出せるチャンスになると思ったのかもしれない」。
第8章―ニュー・ジャーナリズム
桑原は芸能記者・評論家としての仕事を続けながら、徐々にノンフィクション作家の仕事へと舵を切り始める。
そのあたりの時代の空気をルポライターの岡さんが説明する「桑さんがノンフィクション作家へと移っていった背景には当時(1973~74年)、ニュー・ジャーナリズムという言葉が出てきたことが関係あるのではないか。沢木耕太郎とか。みんな触発された」。
ニュー・ジャーナリズムというのは1960年代後半のアメリカで生まれた新たなジャーナリズムのスタイルのことだ。
ストーリーテリング
代表的なニュー・ジャーナリズムの書き手、ゲイ・タリーズはこう言っている「虚構を一切せず、本名は実在する通りの名前、出来事などをきちんと使用して“現実を演出”する。ニュー・ジャーナリズムは、要は、ストーリーテリングのことだ」。
他にも「なぜぼくらはヴェトナムに行くのか?」などを書いたノーマン・メイラー、ケネディ政権誕生の時のことをまとめた「ベスト・アンド・ブライテスト」といった著作で知られるデイヴィッド・ハルバースタムなどがその分野でよく知られているライターだ。
日本でニュー・ジャーナリズムの旗手とされた沢木耕太郎は1970(昭和45)年にデビューしたノンフィクション作家で、今でも彼の「深夜特急」などには熱狂的なファンがいる。
また、立花隆(代表作:「田中角栄研究~その金脈と人脈」「宇宙からの帰還」「臨死体験」)、山際淳司(「江夏の21球」)、後藤正治(「リターンマッチ」「遠いリング」)、佐木隆三(「一・二審死刑、残る疑問-別府三億円保険金殺人事件」「男の責任 女高生・OL連続誘拐殺人事件」)、山崎朋子(「サンダカン八番娼館」)、辺見じゅん(「収容所からきた遺書」)らも日本ではニュー・ジャーナリズムを代表する作家とされる。
「番屋会」での交流
岡さんは言う「猪瀬直樹や佐野真一ら「月刊現代」とかで書いているノンフィクション作家たちもニュー・ジャーナリズムに刺激されていた。二人は一緒にPL教団を追いかけたりしていた」。
そして「猪瀬が中心になって「番屋会」というのを作った。市ヶ谷の日テレの近くに「番屋」という居酒屋があったことからの命名だ。そこは地下で、奥に3畳あるかないかの小上がりの座敷があった」。
「僕は猪瀬に誘われた。猪瀬は「沢木だけにいい思いをさせるな、俺たちもやるんだ!」と燃えていた。文春の編集者も来て、意見交換したりした。横のつながりを持とうとした」
「読売新聞の敏腕記者だった本田靖春もやって来たことがあって、僕にノンフィクションライターとしての姿勢について丁寧に話をしてくれた」
「桑さんは番屋会には来なかったけれど、そういうニュー・ジャーナリズムの風を感じていたと思う。桑さんは自分1人で独自にやっていったと思う。でも、芸能をばっさりと切ってしまうわけではなかった」と岡さんは話した。
「CM界の黒澤明」の自死
岡さんはまたその時代の雰囲気を表す出来事として「CM界の黒澤明」といわれた杉山登志氏(すぎやまとし)の自殺を挙げた。
1970年代、高度経済成長ド真ん中で今でも語り草となっているモービル石油の「旅立ち」という有名なCMがあった。それを制作したディレクターが杉山氏だった。
杉山氏は当時つきあっていたモデルに振られたこともあり、赤坂の自分のマンションで自殺する。1973(昭和48)年12月のことだった。
遺されたメモにはこう書かれていたー「リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などわかりません 夢がないのに 夢をうることなど・・・とても 嘘をついてもばれるものです」。
高度経済成長下で人々が踊っている、そんな宴の陰で本当のことが置き去りにされているのではないか、そんな意識が一部の人々に芽生えてきた時期だったように思える。そこから新たなる(ニュー)ジャーナリズムを模索する動きが生まれてきたのではないか。
時代は転換点を迎えつつあった。
70年安保を経て、政治の季節は終わりつつあった。あさま山荘事件は1972(昭和47)年のことだった。オイルショックが経済に打撃を与え、高度経済成長も先が見えてきていた。
なお、ルポライターという名称が「現代用語の基礎知識」(自由国民社)に初めて登場したのが1973(昭和48)年版だった。
この頃、ノンフィクション作家には書く場がたくさんあった。例えば、月刊「文藝春秋」、月刊「現代」、月刊「宝石」、月刊「潮」など。
桑原もそのような「舞台」でノンフィクション作品をコンスタントに発表していった。
もう一人のデビ夫人
月刊「現代」1982(昭和57)年1月号で稲敏は「もう一人のデビ夫人」というルポを書いている。前書きにこうある「インドネシア賠償の巨大利権にからむ人身御供として贈られた悲劇の女たち。秘密の足跡を追い、謎に満ちた国際政治の暗部を暴く」と。
デビ夫人は赤坂の高級クラブ「コパカパーナ」のホステスだったが、インドネシア初代大統領のスカルノに見初められて大統領宮殿入りした。近年ではテレビタレントとしての知名度のほうが高いだろう。
桑原はデビ夫人(本名:根本七保子)のほかに金勢さき子や小林喜子といった女性たちがどのようにしてインドネシアに渡ったのか、ビジネス界そして国際政治の内幕を描くことによってその謎を解いてゆく。
また月刊「現代」1982(昭和57)年12月号に「生きていた軍神」という記事を書いた。「杉野はいずこ・・・日露戦争で“爆死”したはずの杉野兵曹長が満州で生きながらえていた。軍神の帰還を妨げたものは?軍国主義の荒波に運命を狂わされた男の「戦争と人間」」を描いたノンフィクションだ。
(続く)