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週刊誌の時代の男たち⑥
夕刊紙市場に次々と参入
その後、初の駅売りタブロイド夕刊紙として「夕刊フジ」が1969(昭和44年)に創刊された。これが売れた。
それを見た徳間書店は、経営困難となっていた東京タイムズ社を買収して、発行部数が30万部に達したこともある東京タイムズ社が長年培った夕刊紙の編集・販売・経営ノウハウを手にしたのだ。
徳間書店は「夕刊ニッポン」を1973(昭和48)年12月に創刊した。「夕刊ニッポン」は現在の夕刊紙に通じる内容で、社会ネタ、政治もの、経済ニュース、ゴルフ、野球などのスポーツ情報、映画情報、芸能、そしてもちろんピンク情報などバラエティに富んだ記事が紙面を飾っていた。
連載も充実していた。
元通信社記者で政治家に転じる田英夫の「極点インタビュー」、役者・小松方正の「男の艶歌」、作家・梶山季之の「ニッポン一匹狼」、野球界のご意見番・大沢啓二の「ぶった斬り」など錚々たる執筆陣だった。
だが、「夕刊ニッポン」は長続きせず、1,2年して潰れてしまう。
当時、口が悪い連中はこう言ったそうだ「ニッポン沈没 「VIVA」で万歳」。「VIVA(ビバ)」というのは徳間書店が、当時人気があった「anan(アンアン)」とか「non-no(ノンノ)」といった女性グラビア誌に対抗して出していた雑誌だった。
「VIVA」はやがて廃刊となる。
そして、1975(昭和50)年「日刊ゲンダイ」が誕生することになる。「日刊ゲンダイ」には「ヤングレディ」の記者たちがだいぶ入って来たと岡さんは話す。
芸能記者とカネ
この頃、箱山さんはその後の彼自身の生き方を左右するような、桑原のポリシーだったに違いない貴重なアドバイスを受けた。
旅館に缶詰めになって原稿を仕上げてメドがついた頃、せんべいをかじりながら「桑原さんがポツンと言った。
「あのなぁ 箱ちん、これから取材でいろんなことがあるだろうけど、この仕事をずっと続けて行こうと思うなら、取材相手からお金をもらっちゃ絶対にダメだぞ。それに味をしめて身を持ち崩した人がたくさんいる」
「そのころ勤めていた新聞社に、お金にからんだ灰色の部分があることを知りモヤモヤしていたこともあって、私はその言葉を素直に聞くことができた」。 その後、箱山さんはそのアドバイスに従う機会が何度もあったという。
箱山さんが日本観光新聞に入社して「2年ほどして編集局の内紛で多くの人たちが辞めていき、桑原さんが辞めたのもこの頃」だった。そんな混乱のなか、日本観光新聞は長い歴史を閉じることになる。
そして、榎本さんは裏世界に通じていた同僚の佐々木弘さんの紹介で、榎本さん曰く「右翼新聞の帝都日日新聞」に移った。
榎本さんの言とは異なり、帝都日日新聞は1932(昭和7)年の創刊当初から政府や軍部に対して批判的なスタンスを崩さず、特に東条英機内閣を攻撃したことで知られた。
1940(昭和15)年には東京毎日新聞を吸収合併して影響力を強めたが、1944(昭和19)年に内閣情報局から発行停止命令を受けて一旦は廃刊となる。
だが、1958(昭和33)年に帝都日日新聞として復活。1969(昭和44)年にはやまと新聞に改名された。
榎本さんは日本観光新聞を去って帝都日日新聞に入社した。一方、桑原は創刊して間もなかった女性週刊誌「女性自身」へと移る。
第3章―「桑原組」立ち上げ
「雑誌新聞総かたろぐ」(メディア・リサーチ・センター)によると、「女性自身」は「20歳以上の幅広い女性をターゲットに入れた女性週刊誌。ニュース、ゴシップ、エンターテインメントのほか、ファッション、ショッピング、ビューティ、旅行記事、感動情報などを提供し、若い女性の新しい生き方を幅広く追及する」という特徴があった。
そんな「女性自身」時代に稲敏の周りには彼を慕うライターたちが自然と集うようになってグループが出来るようになる。「桑原組」と呼ばれた。
「桑原組」は吉田元夫さんが中心となって新宿の大久保に事務所を構えた。ルポライターの岡邦行さんがそれまで働いていたボウリング雑誌が傾いてしまったので、使わなくなったその事務所から机などを運んできた記憶があるという。
ここで少し横道にそれる。桑原と吉田さんとの出会いについて触れたい。
吉田さんが早稲田大学文学部仏文科の学生だった頃、大学と掛け合って、大隈小講堂でピンク映画の上映会をやった。
当然、学内ではこれには賛否両論が巻き起こったらしい。その上映会を取材したのが桑原だった。終わると近くの居酒屋で二人は飲み、話をしているうちに吉田さんが桑原の家の近くに住んでいることがわかる。
「うちに遊びに来なさい」という桑原の言葉を「真に受けてちょくちょくお邪魔するようになりました」と吉田さんはいう。
吉田さんは向井寛監督のもとでピンク映画の助監督をするが、金銭面のことなどで監督とぶつかり、映画の世界を去ることになる。
その時に吉田さんは桑原に相談をして、「書く方面をやってみないか」と言われて、「女性自身」での仕事を始めたのだ。
一匹狼たち
さて、「桑原組」の話に戻ろう。
箱山さんはいう「「女性自身」で桑原組と呼ばれるグループがあったのです。桑原さんを慕うライターたちが集まって出来た仲間のグループだった」。 でも、「メンバーのほとんどが一匹狼。そもそもフリーで仕事をするのは、組織の一員としてではなく、どこかで自由でいたいという思いが強い人々。もともと共同作業が不得手なのです。そのぶん、ひとりひとりの個性は豊かだった」
芸能レポーターとして知られた前田忠明さん。「女性自身」などを経て吉本興業の出版部門の責任者として活躍した吉田元夫さん。金沢の料理屋の息子さんで、財テクや骨とう品に詳しかったカメラマンの高野博さん。
「みんなみんな強烈な個性があった」。
その桑原組だが、吉田さんにいわせると一種の「編集プロダクション」だったという。しかし、遊び仲間の集まりとしてはともかく編集プロダクションとしては機能しなかった。
「編集プロダクションというのは有能な営業と、いろいろな出版社にパイプがある人がいないといけなかった。仕事をとってきて富の分配をするかたちでないといけない。しかしそうならなかった。みんな一匹狼だった」と吉田さん。
「桑さんには文才はあったけれども商才はなかった。機能しない。桑原組にいても食えない。仕事がない。となると一匹狼をやらざるをえない。桑原組という言い方は後々まで残ったが、それは編集プロダクションではなく仲間うちを語る時の言い方になってゆく」。
後々まで組のメンバーらは正月2日になると、幕の内が開けないうちから、保谷の桑原家に集まった。新年会だ。
1階の六畳ぐらいの居間で、こたつを囲んでみんなが座って飲み食べ話に華を咲かせた。人が来ては去り、来ては去り、宴は真夜中まで続いたものだ。泰子は台所に立ち続け、酒のつまみを次々と作っていた。狭いスペースに多い時で10人以上もの人が、肩がぶつからんばかりにして集まっていた。
前田忠明の青春の日々
芸能レポーターとなる前田忠明さんは古くからのつきあいがある友人だった。前田さんは明治大の後輩でまだ駆け出しの貧しい頃、二人でよく飲んだそうだ。
泰子が回想するー「前田さんは面白い人だった。酒屋の娘と仲良くなってお酒をタダで届けさせたり、稲敏の下宿に来る途中の畑でキャベツを取ってきたりして、それを金盥で煮て塩をかけてつまみにしてお酒を飲みました」。
桑原は、独自の道を行くことになる前田さんに時々、アドバイスしていたようだ。
前田さんは「女性自身」で一時、働いたが、その時連れてきたのが残間里江子さんだった。残間さんは明治短大卒業だったので明大人脈に連なる一人でもあった。残間さんはのちに山口百恵の自伝「蒼い時」を手がけて一躍有名になる。現在も、出版・映像・文化イベントなどのプロデューサーとして活躍している。
ジャニー喜多川の餌食に
桑原には若い仲間もいた。安藤千明と小坂まさるというアイドル歌手たちもそうだった。
まさるはジャニーズの「メッツ」のリーダーで当時は人気アイドルの1人だったが、ジャニー喜多川の餌食になったそうだ。
それを知った、大阪で不動産屋をやっていた父親がジャニーのところに怒鳴り込み、逆に脅したという。「うちの息子をどうしてくれるんだ!」と。
業界では誰もが知る話だったというジャニー喜多川の未成年男性タレントへの長年にわたる性虐待問題だが、2023(令和5)年の英BBC放送の報道でクローズアップされて社会問題化した。
多くの被害者が名乗り出て会社はケアと補償に乗り出した。そしてジャニーズ事務所としての存続は難しくなり、名称を「SMILE-UP」に変更した。
そう、同様に性虐待にあったまさるは結局、ジャニーズを飛び出してバーニングに入る。
千明とまさるは新宿南口からそう遠くないところでスナックを一緒にやっていた。
「1階はお好み焼き屋で、そこの5階にスナックはあった。山口百恵そっくりの千明の奥さんもそこで働いていた。まさるはよくふざけて女装をしてきていたし、店のお客さんの女の子たちと急にどこかへ消えてことに及んでいたようだった」(岡さん)。
千明は近藤プロダクション所属のタレントで、テイチクからデビューした。
ちなみに、千明の父親は、1954(昭和34)年に太平洋のマーシャル諸島・ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で死の灰をあびて被爆した第五福竜丸の船員だった。
(続く)