テレサ、幸子らを支えた男
テレサ・テン、小林幸子、欧陽菲菲といった昭和を代表する女性歌手などを縁の下から支えた男がいる。その名は岡本和夫。
岡本さんはギタリストで寺内タケシとブルージーンズのメンバーだった。その一員として1966(昭和41)年のビートルズの日本武道館公演でオープニング・アクトとしてステージに立った経験もある。
岡本さんの芸歴は長い。芸能界に足を踏み入れたのは学生時代だった。
岡本さんの学校の先輩に歌手がいて、その弟が悪人で兄のもとに行こうと誘われた。「そこは池袋のジャズ喫茶ドラムでした。するとボーヤがいなくてバンド・メンバーがみんなで楽器を運んでいるところだったから手伝わされた。それがきっかけでバンド活動につながっていきました」。
ブルージーンズは内田裕也さんのバックを務めていた。「裕也さんのすごいところは気遣いを忘れないことでした。あの人はちゃらんぽらんに見えるけど、全然違いました」と振り返る。
縁の下の力持ち
そんな岡本さんの知られざる日本の芸能界への貢献はテレサ・テン、小林幸子、欧陽菲菲らを音楽的に支えた縁の下の力持ちだったことだ。
テレサが1977(昭和52)年4月22日に東京新橋のヤクルトホールで行った「ファーストコンサート」で、岡本さんは編曲・指揮を担当した。
テレサは日本でのデビューから3年目、24歳だった。
「譜面を書くのに前日は全く寝ていませんでした」と岡本さんは話す。
また、テレサが歌う曲をすべては知らなかった。例えば「何日君再来」。「僕は知らなかったんです。台湾のテレサと日本の僕との間で電話でテレサが歌って僕が譜面に起こした。本番ではピタッとはまって、テレサにも褒められた。いろいろなアレンジでやってきたけど一番歌いやすかったと」。
実はその前年から、新宿ルイ―ドで岡本さんがギターと編曲で参加したテレサの「ミニライブ」が複数回にわたって開かれていた。こちらも知る人ぞ知るテレサの初舞台だった。豊岡豊とスウィングフェイスが演奏だった。
岡本さんとテレサは日本デビュー2曲目の「空港」(1974=昭和49年)からの付き合いだった。「空港」は大ヒットを記録した。
「夜のフェリーポート」のヒットなど順調だったテレサだが、79(昭和54)年に躓いてしまう。いわゆるパスポート問題だ。
本来の中華民国(台湾)のパスポートでなく、インドネシアのパスポートで日本に入国しようとしたため旅券法違反で1年間の国外退去処分となった。岡本さんはテレサにこの事件のことを訊ねたら「どうしても会わなきゃいけない人がいたの」と答えたという。
1984(昭和59)年、テレサは再来日を許される。荒木とよひさ作詞、三木たかし作曲の「つぐない」で日本再デビューを果たした。この曲が有線放送を通じてじわじわと人気が出て、ヒットを記録した。
続く「愛人」、「時の流れに身をまかせ」も大ヒットした。
テレサ復活の時、岡本さんは何をしていたのか。「僕は「劇伴(げきばん)」をしていました」。劇伴とは劇つまりドラマの音楽のこと。
ザ・ピーナッツのさよなら公演
テレサのファースト・コンサートを手がける2年前。岡本さんは大物のラスト・コンサートでギターを弾いていた。
1975(昭和50)年4月5日にNHKホールで開かれたザ・ピーナッツのさよなら公演だ。ザ・ピーナッツにはもともとのギタリストがいたがやがてその人と一緒に岡本さんがギターを弾くことになった。
「僕が弾いた「大阪の女(ひと)」のイントロのギターソロを気に入ってくれたことが始まりでした。僕は譜面が読めて、レコーディング経験もあり、演歌もやっていたので、いい感じで出来たんです」。
さよならコンサートはとても緊張したと岡本さんは振り返る。「「情熱の花」のイントロはギターだけど、とても長く感じました。テンポが遅くてはいけない。走ってもいけない。間違ってもいけない。緊張しました」。
また、岡本さんは欧陽菲菲とは日本でのデビューから音楽面で支えてきた。1971(昭和46)年、菲菲はベンチャーズ作曲の「雨の御堂筋」で一気にスターダムに駆け上がった。翌年の「雨のエアポート」もヒットした。岡本さんはギターを弾くとともにステージの指揮をしていた。
最初「ラヴ・イズ・オーヴァー」に不満だった菲菲
菲菲は大阪が拠点だった。岡本さんはアレンジを大阪の先生に習っていた。先生は3人いて、そのうちの一人が宮川泰さんだったという。よく菲菲は岡本さんに「大阪にいらっしゃい」と言っていたという。
途中、売れなくなった菲菲はそのままでは台湾に帰らなければいけなくなった。岡本さんは菲菲に「どうしたいのか」を聞いた。すると彼女は「レコードでもう一度勝負をしたい」と答えた。そこでレコード会社をポリドールに移籍すべく岡本さんは手を貸した。
1980年代に入る。菲菲のプロダクションとの契約が切れるので、その前にとりあえずレコーディングをしようということになった。ポリドールの担当者が持ってきたのは「ラヴ・イズ・オーヴァー」だった。
菲菲は不満だった。「ねえ、この曲(私に)合うかしら?」と聞くので岡本さんは「菲菲の違う面がよく出ていると思うよ」と答えたという。ひとたび売れてくると菲菲は何も言わなくなった。
後日、岡本さんがあの曲をレコーディングして「よかっただろう?」と菲菲に話しかけると、彼女はニタッと笑ったそうだ。
菲菲は旦那さんを亡くしたこともあり、今は台湾に帰っているという。
出世払いの約束を守った小林幸子
小林幸子とはアレンジを手がけたことがきっかけでつきあいが始まったと岡本さんは話す。当時、渡辺プロダクションなど4社が作った「芸配」というキャバレーに歌手を送り出す会社に小林幸子は属していた。
マネージャーがいいアレンジャーを探しており、白羽の矢が岡本さんに立った。芸配の小林格という男が岡本さんを紹介してくれたというので、新宿の喫茶店「小鹿」で夕方6時過ぎに幸子と打ち合わせをした。
幸子は美空ひばりの「車屋さん」をやりたいというので、岡本さんは「4ビートの感じでやった」。しかし「やったはいいが、アレンジ料をくれない。最終的には僕もあきらめて出世払いでいいよとなったんです」。
小林幸子のデビューは早かった。少女時代の幸子は「第2の美空ひばり」と言われるほどで将来を嘱望されていた。しかし、10年ほど、下積み時代を経験する。全国を回り、昼間は興行を行いつつ地元レコード店やラジオ局、有線局などを巡り、夜は毎晩のようにキャバレーなどで歌った。
そして、ようやく日の目を見る時が来た。1979(昭和54)年にリリースした「おもいで酒」がじわじわと売れてヒットしたのだ。すると増山というマネージャーから岡本さんに連絡があった。
「小林幸子がお世話になりました。おかげさまで、「おもいで酒」がようやく売れています」というのだ。岡本さんは「渡りに船だと思った。それから約8年間、ギターと指揮で幸子と付き合うことになりました」という。
「出世払いの約束」を忘れてはいなかったのだ。
ザ・タイガース、加山雄三、ザ・ドリフターズ
岡本さんはこの他にも多くのアーチストのヒット曲でギターを弾いている。例えば、ザ・タイガースの「僕のマリー」。加山雄三さんの「君といつまでも」ではサイドギターを担当している。
また、布施明の「君は薔薇より美しい」(1979=昭和54年)のギターも岡本さんが弾いている。
その当時、布施さんのところには英女優のオリビア・ハッセーが来ていた。やがて二人は結婚し、国際カップルと騒がれることになる。
さらに岡本さんは夏木マリさんや奥村チヨさんとも一緒に仕事をした。
岡本さんはドリフターズともつながりがあった。
ドリフはもともとはジャズ喫茶などで演奏するバンドで幕間に披露していたコントがのちに本業になった。
岡本さんはいう「一番仲良かったのは志村(けん)君だった。仲本工事とも親しかった。ぼくが車に乗っている時、「のっけていってくれよ」というので連れていったりしました」。
「長さん(いかりや長介)は志村君ともう一人を”マックボンボン”というお笑いコンビとして送り出して、勉強して来いといったが、片割れが志村君のスピードについていけなかったんです」。
「ある時、新日鉄小倉の慰安会があって、5日間くらい毎日2回ずつ、九州のバンドと一緒だったことがありました。東京から行ったのは俺だけでドリフと一緒に行ったんです」。
「長さんが(高木)ブーのギター・カッティングを直してくれとぼくに言いました。ブーさんのハワイアンだかのリズムの刻み方をもっと歯切れよくしてくれって。演技も歯切れよくしたいっていう狙いがあったようだ」。
「ブーさんにギター・カッティングを一時間強、教えたが、ブーさんは「出来ない」っていう。でも長さんには言えなかった」。
台湾に行ってテレサの墓参りをする
岡本さんは今はこの世にいないテレサにとても会いたいという。彼女が若くして亡くなってしまったことがとても残念だと話す。忘れがたきテレサ。そして岡本さんは今年の3月、一人で台湾に行きテレサの墓参りをした。