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田中一村展を観た!

 奄美大島に移り住み現地南国の風土を見事な色彩で描いたことで広く知られるようになった画家・田中一村(たなかいっそん)の東京では初の大回顧展が東京都美術館(上野公園)で開かれている。
 2024年9月26日(木)に訪れた。
 この展覧会は同12月1日(日)まで開催中だ。
 生前は無名だった一村。しかし、キャリアは長かった。
 栃木市に生まれた一村は5歳の時に東京へ移る。彫刻師だった父親から書画を学んだ一村。ストレートで東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科に進むが、わずか2か月後に「家事都合」で退学。
 第1章「若き南画家「田中米邨」東京時代」ーー若き頃に描いた日本画あるいは南画が紹介されている。なかなかだと思う作品が何点もあった。
 展示作品を観て思ったのは、動かぬもの、例えば樹などと一緒に動くもの、すなわち鳥だったり昆虫だったが大概一緒に描かれていることだ。
 これは何か静と動のバランスの問題なのかと想像する。
 大正4(1913)年の《紅葉にるりかけす/雀 短冊》もその一つ。あるいは大正8(1917)年の《桔梗に蜻蛉図》など愛らしい。
 若くから学んでいた南画も多数展示されている。

千葉寺町の風景画の美しさ
 そして父親を亡くした2年後、昭和13(1938)年、一村が29歳の時、千葉市に移り、姉、妹、祖母とともに暮らすこととなる。戦時中をはさんで約20年間、画家としての暮らしを貫いた。
 この時代を第2章「千葉時代「一村」誕生」で取り上げている。
 家を建てた千葉市千葉寺町を描いた作品が素晴らしい。風景画を色紙絵に描いたが、田舎の何ということのない四季の景色が心に染み入って来る。
 また、デザイン画、木彫、仏画、節句掛や季節の掛物なども手がけ、これらは展覧会への出品作品とは違う画家の生業が感じられるという。
 昭和22(1947)年、数えで40歳の時に、田中米邨は一村を名乗るようになる。そして川端龍子主宰の青龍展に《白い花》を出品し初入選を果たす。そののち花鳥画に新たな境地を見出す。

《白い花》昭和22(1947)年9月 紙本金砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵 ⓒ2024 Hiroshi Niiyama


 また九州・四国・紀州へと旅に出た。旅行中に見た風景を描いた作品たちの素晴らしいこと。色鮮やかな昭和30(1955)年の《ずしの花》や《山村六月》《雨霽》《僻村暮色》《平潮》などが心に残った。
 さらには軍鶏を集中的に模写したり、写真に関心を寄せたり、山水画の古典を学んだり、日本の文人画にも引き続き心を寄せるなど、一村にとって千葉時代はもっぱら模索の時代だったといえよう。

カラフルに描いた奄美大島
 第3章はいよいよ奄美時代にフォーカスする「己の道 奄美へ」だ。
 昭和33(1958)年、50歳の一村は一人で奄美大島の名護へと渡った。当初は与論島や沖永良部島、トカラ列島の宝島などで「取材」を積極的に行ったりしたが、金銭的な行き詰まりから一時千葉に戻る。
 姉に諫められた一村は不退転の決意で再び奄美大島へと渡ったのが昭和36(1961)年のこと。染色工として働き制作のお金が貯まったら制作に取り組むという計画を立てて実行したのだ。
 そして奄美の自然豊かな景色などをカラフルに描いてゆくのである。南国らしいガジュマルの木や高倉あるいは現地で獲れる魚を精密に描いた絵がそうだし、代表作ともいえる《アダンの海辺》もまさに奄美だ。

《アダンの海辺》昭和44(1969)年 絹本着色 個人蔵 ⓒ2024 Hiroshi Niiyama


 一村は昭和52(1977)年9月11日、奄美で引っ越してきたばかりの畑の中の一軒屋で夕食の支度をしている最中に亡くなった。移って来てわずか10日後のことだった。69歳だった。


 休室日は月曜日、10月15日(火)、11月5日(火)。ただし、9月23日(月・休)、10月14日(月・祝)、11月4日(月・休)は開館。開室時間は午前9時半から午後5時半、金曜日は午後8時まで(入室は閉室の30分前まで)。
 観覧料は一般2000円、大学・専門学校生1300円、65歳以上1500円、高校生以下無料。土日・祝日および11月26日(火)以降は日時指定予約制となる。詳細は展覧会公式サイト https://isson2024.exhn.jp へ。問い合わせは℡050-5541-8600(ハローダイヤル)まで。
 

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