描かれた金大中の生涯
私は中学・高校時代にBCLという趣味を持っていた。海外の短波放送を聞くことを楽しみにしていたのだ。
よく聞いていた放送局の一つがお隣韓国のラジオ韓国(KBS)の日本語放送だった。再放送も含め、午前から深夜まで5回ぐらい放送があった。
ニュースに始まり、論評、「玄界灘にかける虹」という手紙紹介などのDJ番組など一回1時間の放送だった。
北朝鮮との緊張状態を背景に妨害電波がかけられることもしばしばで、ラジオに耳を寄せて聞いていたものだった。
そんな朝鮮半島事情もあってラジオ韓国の番組に「北韓の実情」というものがあった。韓国では北朝鮮のことを北の韓国つまり北韓という。
当時の韓国大統領は1962年からその座にあるパク・チョンヒ(朴正照)だった。軍事クーデターで権力の座について反共を売り物としたことから冷戦下で米国をはじめとした西側諸国から支持された。反体制を許さないなどの独裁体制だったにもかかわらずだ。
パク・チョンヒは1979年に暗殺されたが、それは当時は分からなかったが、その時を境にラジオ韓国は数日放送を止めた。
独裁者の死で短い春が訪れた韓国。
日本からの拉致そして光州事件
短い春には、金大中は金永三らとともに3金時代が訪れたと言われた。
しかし、チョン・ドゥファン(全斗煥)による光州事件が起こる。民主化勢力に対する悲惨な血の弾圧だった。
きっかけとなったのは政治活動を再開していた金大中の逮捕だった。それ以降、度々獄中に入れられることになる。独裁者たちがいかに民主化を訴える金大中を恐れていたかという証だろう。
このドキュメンタリーの後半は光州事件(5・17事件)に多くを割いている。チョン・ドゥファンの独裁政権はこれを地域感情の発露とすり替え、また金大中を共産主義者だとでっち上げて問題のすり替えを図ったのだ。
朝鮮戦争は終わっていない
そして、日本も韓国の内政を対岸の火事として語ることは出来ない。戦後の復興の起爆剤となったのは朝鮮戦争だったし、現在まで続く日米同盟に基づく軍事路線はそこを起点としているからだ。
そして朝鮮戦争に参戦した米軍の拠点は在日米軍基地だった。
ちなみに朝鮮戦争は終わっていない。
結ばれているのはあくまでも休戦協定である。
そもそも第二次大戦後、朝鮮半島が統一国家として存在しなかった背景には冷徹な国際情勢言い換えれば大国の思惑があったからだ。
そして、金大中は1973年、米国とともに民主化運動の拠点としていた日本に滞在中に拉致されて工作船から海中に沈められる寸前だった。KCIAの犯行だったとされるが、日韓関係の喉元に刺さった棘となった。
波乱万丈の人生を送った金大中を描いた映画「オン・ザ・ロード~不屈の男、金大中~」(日本版(韓国語)/129分/ミン・ファンギ監督)が2024年11月1日(金)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開される。
元韓国大統領・金大中の生誕100年と記念して、彼の生涯と政治家人生を、本人の肉声や関係者のインタビュー、そして初公開の映像を含めた6000時間に及ぶ膨大な映像資料を基に制作されたドキュメンタリーだ。
韓国で大きな話題を呼んだこの作品が、満を持して日本公開を果たす。
日本の植民地時代に全羅南道に生まれ、青年実業家となるも朝鮮戦争を経て、政治家を志す。選挙に負け続け「落選専門家」とまで言われる。軍事政権下で何度も死の危険にさらされながらも自身の信念を貫いた。
この作品は同時に日本の植民地からの解放から建国、朝鮮戦争、幾度にもわたる軍事クーデター、光州事件、民主化闘争と繋がってゆく韓国現代史の映像絵巻ともいえる壮大な記録でもある。
このドキュメンタリーを観て、いかに自分が韓国の歴史について知らないかということを思い知らされた。日韓関係については表面的な知識はあるものの、韓国国内の民主化闘争についてはほぼ知らないに等しい。
日本ではコリアンに対する根深いヘイトがある。これも無知がなせる技でもある。日本の歴史教育に欠けているのは近現代史だ。そして決定的な欠点は日本の公式見解を伝えるのが教科書の役割だとされ、相手方の言い分を紹介して議論するような教育がなされていないことだと思う。
つまり、日韓の若者が両国関係を議論しようにも、韓国の若者に比べて日本の若者は何も知らない。相手方の言い分ももちろん知らない。それで本当の議論は出来ないし、相互理解は困難になる。
韓国の歴史は冷戦に左右され、米国は反共と対峙する最前線である韓国が反共である限り独裁でも反民主的であっても支持してきた。このあたりの描写がこのドキュメンタリーでは薄い気がした。
1987年以降は?
この映画は金大中の生誕から1987年までの記録である。彼たちの民主化闘争が実を結んでいく時代の前までである。
配給会社のすももによると、今回公開されるのは今年1月に韓国でロードショーとなった「第一部」で続編の制作も予定されているという。
87年以降について触れておくと、公民権を回復して、16年ぶりに直接選挙で行われた大統領選に出馬したが、盧泰愚に敗北した。それまで民主化のために手を携えてきた金泳三と足並みを揃えられなかったからだ。
92年の大統領選にも出馬するが敗北し、一時的に政治活動から身を引いた。研究活動を経て、95年に政界復帰。そして、それから2年後の大統領選でついに勝利を収めるのだ。
98年には日韓首脳会議を行い、日本文化の開放に踏み切った。北朝鮮に対しては「太陽政策」と呼ばれる融和政策を取り、2000年には最高指導者の金正日と会談、南北共同宣言を締結した。
その功績から金大中はノーベル平和賞を受賞する。
この南北の雪解けを背景に、北朝鮮は日本人の拉致問題を認めたことも忘れてはならないだろう。
2009年に死去。83歳だった。