インプロ的(即興的)に生きる
先日は、インプロバイザーの中島早紀さんとおしゃべり。
メンバーシップに参加してくださっているのですが、ゆっくりお話するのは初めてでした。そもそもインプロってご存知でしょうか?恥ずかしながら私は中島さんを通じて初めて知りました。
「インプロ」と「インプロバイザー」という言葉の関係は、「インタビュー」と「インタビュアー」と似ています。シンプルにインプロバイザーを訳せば、「インプロ」をする人、となるのでしょうか。
でも、中島さんから聞いてとても印象に残っているのが「インプロバイザーは生き方」という話です。
僕はインプロのことを知らないので、そのことを語ることはできません。ですが、インプロ的(即興的)に生きるというのは、なんだか自分の人生においても心当たりがあるように思えたのです。
イメージはこうです。
日常という一本の線が白い紙に鉛筆を使ってすーっと引かれています。日々いろんなことがあるので多少のゆれはありながらも、基本的にはまっすぐその線は引かれ続けています。
ところがあるとき、ちょっと不思議なことが起こります。鉛筆が進行方向を少しそれ始めるんです。それはほんの微妙な変化なので、いつものゆれの一つと解釈することもできます。でも人生を主観している本人は「この変化はいつものゆれとは違う」ことに心のどこかで気づいている。この小さな変化をこの瞬間に「ばっ」とうけとめて、変化に対して自分も何かリアクションを返すことで、この鉛筆の描く線はぐいーんと方向を変えるかもしれないことに。同時に、この瞬間にうけとめずに見て見ぬふりをすれば、きっといつものゆれの範疇におさまって、日常は続いていくことにも。
僕の中では、インプロ的に生きるとは、その瞬間の根拠なき予感にダイブすること。そして、自分自身とその環境が変化していくことを受け入れること、あるいはむしろそれすら楽しんでしまうこと。積み重ねた変化のひとつひとつが、やがて大きな推進力に姿を変えていくことを信じること。うけとって、かえす。過去も未来もなく、いまここにあるものをどんと受け止めること。そうやって一旦は解釈しました。
即興的に生きていくと聞くと、自暴自棄になって「破滅」へ向かう方向に生きていくことが想起する場合もあるのかもしれません、ですが、個人的には逆のような気がしました。それはむしろ「回復」へと向かう方向なのだ、と。社会の中に自分の身を置くことで、捨ててきた、失ってきた何かを取り戻していくプロセスなんじゃないかなと。
なにも、自分の選択してきたすべての直感的判断が正しいとかそういうことを言いたいわけではなく、それを正当化することでもなく(いろんな人に迷惑をかけたことも数えきれず…)、ただそれでも、インプロ的(即興的)に生きるという言葉は僕のなにかをつかんで離しませんでした。だから、こうやって書いてみたけど、それでもまだ不思議と近づけていない気がします。
🐈
ちなみに「インタビュアー」も職業名ではなく生き方であると思っています。もしかしたら、インタビュアー的に生きることを追求した先に、インプロ的に生きることと、どこかで交差するときがあるのかもしれません。
22/09/09
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