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空から降る一億のミーティング
(あれ今日、ミーティングでしか人と話してない……?)
夜、歯磨きをしながらぼーっとテレビを見ていて、その事実に気づくことがあります。妻とは基本的に毎日話しているので、あくまで妻以外に、としたときに。
さて、こんな妄想をしました。
いまから5,000年前の人たちが現代にタイムスリップして、いわゆるオフィスワーカーを見たら、なにを思うだろう、と。第1位は「みんな、ずっと座っているけど、腰痛くならないのかね?」だと思います。あくまで、個人的見解ですが。
第2位は「みんな、ずっとミーティングしてるね」です。お父さんに連れられて一緒にきた10歳くらいの男の子が無邪気に言うでしょう。
話は少し変わり、宇宙からの夜の地球の映像を見たことがあります。星の表層に明るい光が瞬き、密集している地域と、そうでない地域の偏りが映し出されていました。その電球の光の代わりに、人間たちの「会話」が光として可視化出来たら、何が見えるでしょう?
人が会話を交わしていたら点灯、終われば消灯、地球を宇宙から眺めてみれば、昼間もけっこうな頻度で明滅しているはずです。そして、光の多くは「ミーティング」なるものではないか、とふと思ったのです。現代では、会話のそれなりに多くの部分を「ミーティング」で担保しているのではないか、と。
日々何を語るか――人はそこに影響を受けますが、それでいえば、どんどん人はミーティング型人間に近づいているかもしれません(妄想を続けます)。ミーティング型人間、ってかっこいい響きでけっこう好きです。
さて、ミーティング型人間はどんな特徴を持つでしょうか。「意味」を感じられる言葉のやりとりに価値を見出しやすく、そうでないものには見出しづらくなるのでしょうか。「タイパ」みたいな言葉も、そんな環境から生まれてくるのかもしれません。
似た話で言えば、会話の向かう先にゴールがないと、そわそわしやすいかもしれません。「これ、目的なに?」です。「目的」がないと、不安になります。アジェンダもできれば欲しくなります。
つまり、雑談のような時間の過ごし方が、へたっちょになります。自由に、連想して、言葉のなかを遊ぶような時間の過ごし方が。
でも、それはしょうがないことだとも思います。いわばミーティングが会話の多くを占める時代における作用と反作用。繰り返しになりますが、人は、何を語るかに日々影響を受けてしまいます。
さてさて、今日も、どこかで、だれかがミーティングをしています(あ、僕もか)。
一方で、もしかしたら、にわかには信じがたい仮説ですが、ミーティングの時間によって、僕たちは自分自身の何かを満たしている、なんて可能性もあったりして。