落語日記 蔵出しの勉強会を始めた遊雀師匠
三遊亭遊雀独演会「遊雀印」〜掘りだし噺あれこれ〜 第一回
6月1日 ホールミクサ 池袋
遊雀師匠が新たに立ち上げた勉強会、その名も「遊雀印」。遊雀師匠が今までに稽古はつけてもらったものの、すぐに蔵にしまってしまった噺が結構あるそうで、今回数えたら70演目もあったそうだ。なので、これらの噺をなんとか蘇らせたいという強い意気込みで、この勉強会を企画されたとのこと。会場は池袋のサンシャイン通りにある元はミニシアターの映画館で、キャパ144席。
ネットでの遊雀師匠のチャレンジ宣言のような書き込みを拝見して、これは行かねばとお邪魔してきた。
この会の感想に入る前に、落語の世界独特の言い回しがあるので、整理しておく。
落語会の案内や落語家の間でよく使われる「蔵入り」という言葉がある。これを私流に定義すると、ネタ下ろしで一度は口演したものの、何らかの理由でその後は口演しなくなってしまったことを表す言葉。または、口演しなくなった演目自体を指すこともある。
普段は使わない大切な物を仕舞っておく倉庫のことを、日本建築では蔵とか土蔵と呼んでいる。せっかく覚えた大事な演目も、記憶の奥に仕舞い込むことから、蔵に仕舞い込み人目に触れることがないことに例えて、「蔵入り」と呼ばれるようになったものと思われる。
似た言葉で「お蔵入り」という言葉がある。これは、映画や芝居などが上映上演の前に中止になることを言い、お蔵入りした作品は、一度も公に公開されていない。しかし、落語界で使われている「蔵入り」は、一度はネタ下ろしの口演をしている場合が多いので「お蔵入り」とは微妙にニュアンスが違う。ただ、遊雀師匠によると、今回の蔵出しの噺は、蔵入り期間が長すぎて、ネタ下しの記録も記憶もない、とのこと。もしかすると「お蔵入り」の噺かもしれない。
そんな蔵入りした演目を、稽古をし直して再度挑戦することを「蔵出し」と呼ぶ。なので、この「遊雀印」は蔵出しの会ということになる。
桂伸都「だくだく」
桂伸治門下の前座さん。ネットでプロフィールを調べても、出てこない。見かけは、おじさん。でも、元気いっぱい。
神田梅之丞「和田平助の鉄砲斬り」
神田伯山門下、一番弟子で芸協の前座さん。イケメンで、口跡明瞭で切れの良い語り口。こりゃあ、人気が出そうだ。
ちなみに、二番弟子は神田青之丞、三番弟子は神田若之丞。
三遊亭遊雀「堀之内」
まずは、この会の主旨説明から。ネタ下ろしをしたきりで、蔵に仕舞い込んでいる噺が沢山ある。これらを何とか復活させたいという思いで始めたのが、この勉強会。以前より、ずっと勉強会をしたいと思っていた。蔵出しといっても、ほぼネタ下ろしと同じ。稽古の記録はあるのだが、一度は演っているはずなのに、ネタ下ろしの記録も記憶もない。そんな噺をします、というチャレンジ宣言のマクラ。
今日の前座が二人いるのには、二つの訳があるとの説明。一つは勢いのある若手を紹介したいという思いと、二つはこれから掛ける噺を浚う時間が欲しいから。二つ目の訳が大きいような気がする。いつもと違って緊張する、いつもがいい加減ではないけど。遊雀師匠のそんな言葉は、正直なお気持ちだろう。
昔を振り返り、小三治・扇橋・文朝三人噺の会という小三治師匠が参加している勉強会があって、当時は前座で楽屋にいて熱心に聴いていたとのこと。実は、私も鈴本演芸場で開催されていたこの会へ、ずいぶん昔に行った記憶がある。小三治師匠でも勉強会を熱心に行っていたという思い出から、勉強会の大切さを感じさせてくれる。
この日の最初に挑戦する蔵出しの演目について。前座のときに、林家たい平師匠と一緒に橘家圓蔵師から稽古を付けてもらった噺。平井のお宅に二人で伺った思い出。圓蔵師は、高座も普段も表情は変わらない。このときのテープが残っている。これは何度聴いても可笑しい。同じように再現するのは難しい。そんな感想から本編へ。
突き抜けた粗忽者の馬鹿々々しい言動が可笑しい噺。遊雀師匠が見せてくれる粗忽者の行動は噺の定番のとおり。どんな行動をするのか知っているのに笑ってしまう不思議。これが、同じ噺を何度聴いても笑ってしまうという落語の本質を体現されているということだろう。
この噺は遊雀師匠に馴染んでいて、蔵出し、ネタ下ろしとも思えない。そんな一席目。
三遊亭遊雀「三方一両損」
一席目を終えて、ほっとした表情を見せる。観客には分からない緊張があったのだろう。口演中はそんな表情は見せないところが遊雀師匠の凄いところ。そして、マクラでは緊張したことなど正直に気持ちを吐露されるところが、また魅力の一つなのだ。
そして、一席目を掛けたあとの遊雀師匠の感想を伝えてくれた。一席目の甚兵衛さん、こんな奴はいない。こんな人間を描けるのは落語しか出来ない。この「一人気狂い」の描写は、落語ならではのもの。演者が凄いというより落語の演目自体が凄い、可笑しく出来ている。演ってみての感想、なるほどと観客にも強く刺さる。
さて、これからは自分の時間と宣言、得意の噺を掛けるという意味だろう。始まった演目が、私は初見。こんな噺も息抜きのように、何気なくさらりと掛ける。遊雀師匠、格好いい。
三両も要らないと言う江戸っ子。負け惜しみとも感じない、マジで要らないと思っているようで、遊雀師匠が見せてくれた江戸っ子の偏屈ぶり。極端すぎて笑うしかない。
仲入り
三遊亭遊雀「千両みかん」
マクラは芸協らくごまつりの話題から。遊雀師匠はこのところ、毎回ゴミ担当係。会場での来場者整理も行う係だ。伯山先生が会場に登場したときのエピソード。すぐに、サインを求める行列が出来る。キリが無いので、途中でストップをかける係を引き受ける遊雀師匠。伯山先生との会話、20人で切ってください、了解、任せとけ。弁慶の立ち往生のように両手を広げて「すみませ~ん」と通せんぼする遊雀師匠。来場者から不満のブーイングと共に「じゃあ、遊雀師匠でもいいです」の声。「でも、じゃねえだろ!遊雀師匠がいいです、だろ」との不満の声に会場爆笑。
東京の夏祭りも今真っ盛り、そんな祭りが終われば、いよいよ夏がやってくる。芸協らくごまつりから夏まつり、そして真夏の噺へ。この日のネタ出しの噺で、この噺も蔵出しに挑戦。
まさに渾身の一席。筋書きは、落語ファンならご存じの噺。商家の主人親子の狂気が、真っ当だった奉公人の番頭をも狂わせてしまう。そんな、この噺の本質を見事に浮かび上がらせた一席だったと思う。
これまでは、噺の下げとなる番頭の行動が切なくて哀れで、なんとなく悪い後味が残っていた。金持ち親子に振り回される奉公人の悲哀、笑い飛ばすには切なすぎるのだ。しかし、この一席で遊雀師匠が見せてくれたのは、登場人物全員の狂気が切なさを吹き飛ばす噺。切なさを超える番頭の狂気によって、シンプルに笑える噺へと変貌を遂げていたのだ。
真夏にみかんが食べたくて寝込むという若旦那の狂気と、子供可愛さ故の絶望により奉公人を主殺しだ逆さ磔だ、と脅す大旦那の狂気が、一番真っ当だった番頭を狂気の仲間に巻き込んでいく。
食べたいと思いだけで命も危ういほど衰弱してしまう若旦那の狂気。みかん一個に千両出すのは惜しくないという子供を想うが故の金持ちの親の狂気。この親子の狂気が当たり前のことのように、淡々と描かれるのと対照的に、みかんを求めて泣きながら彷徨い、挙げ句の果てに今まで積み上げてきた奉公人としての人生を壊してしまった番頭。泣きの遊雀全開の番頭の描写が、あまりにも馬鹿々々しく描かれていて、もう笑うしかないのだ。
若旦那が手にしたみかんと同じで、遊雀師匠の記憶の蔵に仕舞い込まれていたこの噺。その蔵入りの間に、熟成が進み落語らしさを成長させたと考えられる。
噺に登場する蜜柑問屋が、今はなき万惣。この噺を習ったのが、三遊亭萬窓師匠。これもご縁。
悪戦苦闘どころか、蔵入りの熟成効果で見事な一席を披露してくれた遊雀師匠だった。