落語日記 まだまだお元気な圓窓師匠
第27回 三遊亭圓窓一門会 ~あんな神こんな神~
12月24日 池袋演芸場
以前は笑点でお馴染み、「圓窓五百噺を聴く会」で500演目を達成されてからも20年、御歳80歳になられた圓窓師匠。現在も、大勢の天狗連の皆さんに落語を指導されている。知人のひとりが、そんな圓窓師匠の素人弟子の一人。この日はその知人からお誘いを受けて、定期的に開催されている圓窓一門会に初めてお邪魔した。
配布のプログラムより「今年はコロナ収束に願いを込めて、アマビエという妖怪に注目が集まりました。「苦しい時の神頼み」と申しますが、クリスマスは西洋の神イエス・キリストの誕生日です。日本には八百万の神がいると言われております。今回は神様に関する噺を並べました。」そんな趣旨で「あんな神こんな神」というサブタイトルが付されている。
しかし、落語に登場する神様は、どちらかと言えばご利益がない、逆に近寄りたくない神様が多い。この日も、その代表格の死神と貧乏神が登場。
今回のラインナップでまともな神様は、まずは「大山詣り」に登場する大山阿夫利神社の神様。その大山に参詣するための講という団体によるお参りツアーは、信仰というより当時の人々の行楽としての意味合いが強かったことをうかがわせる噺。水垢離までして参詣のための遠路を行くのも、帰りの藤沢の女郎宿で遊びたかったため。神社詣りは、都合の良い口実、大義名分なのだ。神様はまともでも、信者たちがいいかげん。
その他、「羽団扇」に登場する天狗も、妖怪のようだが山の神として信仰の対象となっているし、宝船に乗っている賑やかな七福神までも登場。日本の神様事情を一気に見せてくれる構成、まさに、あんな神こんな神。そんな神様たちの演目は、前座以外すべてネタ出し。
三遊亭まんと「寿限無」
萬窓師匠のお弟子さん。初めて拝見。口跡鮮やかな、しっかりした前座さん。サブタイトルにあやかってお目出度い前座噺。
三遊亭萬窓「大山詣り」
久し振りに拝見。端正で本寸法な語り口の師匠、私の好みのタイプ。さて、どんな大山詣りを聴かせてくれるのか、この日のお目当てのひとつ。
マクラはコロナ禍での自粛生活で、自宅のベランダで家庭菜園を始めたというお話。きゅうりとトマトを栽培したが、病気にかかってしまった。園芸にもソーシャルディスタンスが必要というオチ。
こういう日常の風景に、オチを上手く付けてみせる小噺をマクラで聴けると、落語家らしさを感じて何だかほっとする。
本編は、切れ味鋭いキレッキレという印象の一席。重鎮である先達さんの貫録、酒癖が悪く喧嘩っぱやい熊五郎の江戸っ子の風情、そんな人物描写は、私の好きな志ん朝師匠の大山詣りを思い起こさせる。
三遊亭窓里「貧乏神」
圓窓師匠の二番弟子ながら、現役の川越市議会議員でもある落語家。だからか、寄席ではお見かけしたことがなく、今回初めて拝見。坊主頭なので、大山詣りの直後の登場は、まさに坊主にさせられた熊さんを彷彿させ、私的には出オチ状態。
この演目も初めて聴く。貧乏神が家に住み着いているという男の噺。あれっ、と思ったのが「黄金の大黒」の下げと同じ様な下げだったこと。神様が登場する噺、似てくるものなのか。
三遊亭圓窓「半分っこ」
仲入り前は、圓窓師匠の登場。まず、高座にイスと簡易な演台が運ばれ、演台の上に湯呑が置かれる。師匠がゆっくり登場。本当に、お久しぶりに拝見。椅子に座っている様子はお爺さんだが、お声はしっかり、口跡もはっきりと客席に届くお声。御年80歳を感じさせない、お元気な様子。
現在も十数ヶ所の圓窓噺指南所を開設して、多くの素人に落語を指導されているとのこと。この天狗連の指導は、圓窓師匠の元気の源のひとつなのだろう。
まずは、ネタ出しされているこの演目を創作した経緯のお話のマクラ。立教大学で豊島区の歴史について語って欲しいという講師の依頼があった。豊島区には落語に登場する場所はあまりないので、豊島区に縁の落語を題材にするのは難しい。そこで、自分の思い出を基に、新たに落語を創作して大学で講演することにした。今回の演目は、そのときに作った噺。
父の姉の息子にあたる親戚の人に、小さい頃に可愛がってもらった思い出。おじさんと呼んで慕っていたその人がモデルの噺。ときは終戦直前の深川から物語が始まる。その下町にある駄菓子屋夫婦と息子と愛犬という一家と、おじさんとの心の交流を描く。世の中全体が貧しい時代、お互いが思いやりを持って助け合うことで支え合った時代でもあった。そこから十年後に時代が進み、その後の一家とおじさんの再会が豊島で叶い、熱い感動を生む。まさに人情噺と呼ぶに相応しく、市井の人たちの人情を描いている噺なのだ。思い出で人情噺を創作したさすがの圓窓師匠。
仲入り
三遊亭吉窓「羽団扇」
圓窓師匠の一席の余韻が残るも、仲入りで気分を変えて後半の開始。惣領弟子の吉窓師匠がにこやかに登場。窓里師匠と同じく坊主頭。圓窓一門会では「大山詣り」が効果抜群の演目だ。マクラでは、コロナ禍の来場に対して面白可笑しく感謝を伝え、ベテランらしさをみせる。
本編は「天狗裁き」の元となる演目らしい。初めて聴く。江戸落語では珍しい演目かも。
夢オチなのは同じ。夢の中に登場する高尾山の天狗も同じ。天狗以外に宝船の七福神が登場し、それら神様たちとの交流を描いていて、よりファンタジー性が強くなっている。下げも駄洒落オチで楽しい噺。本編でもベテランの味を感じさせてくれた圓窓師匠だった。
三遊亭窓輝「死神」
この日の一門会の主任は、圓窓師匠の三男でもある窓輝師匠。私は初めて拝見。細身で鋭角な顔立ちで圓窓師匠とはあまり似てないが、そのお声は、父上そっくり。語り口も似ていて、芸の上でも遺伝子を受け継いでいる。
圓窓師匠の人情噺を聴いた直後だからか、死神という演目のせいか、端正な語り口という親子の共通項はあるものの、芸風というか雰囲気は違っている印象を受けた。しいて言うと圓窓師匠が陽なら、窓輝師匠は陰。窓輝師匠の淡々とそして飄々としてつかみどころのない雰囲気は、死神にピッタリ。
呪文は「アジャラカモクレン・ゴートゥー・テケレッツノパア」という時流を取り入れたもの。どんな下げになるのかは、死神という演目を聴くときの楽しみだ。窓輝師匠の下げは初めて聴くタイプ。なるほど、こんな展開があったのか、そんな驚きの雰囲気が客席に広がって緞帳が下がる。
終演後に「半分っこ」の台本が記載された圓窓高座本第391号と、噺の中に登場したサクマドロップが配られた。コロナ禍で見られなくなっている終演後のお見送りだが、圓窓師匠自らお見送り。大勢のお弟子さんたちも嬉しそう。終演後も和やかな雰囲気の会だった。
さて、本年最後の日記。今年中のアップに何とか間に合った。しかし、この会は本年最後の落語ではない、あと1本が残ってしまった。それは、残念ながら年越し。
本年も駄文日記をお読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。
どうなってしまうかと心配していた演芸界の一年も過ぎようとしている。終わってみれば、日常が奪われたなかで、演者も席亭も観客側も、悪戦苦闘しながら前を向いて奮闘されていた。演芸界の逞しさや底力を見せてくれた。演芸が持つ力を感じさせてくれた。
終息への道が見えないなか、状況はすぐには変わらないかもしれない。新しい生活様式が演芸との関わり方も変えるかもしれない。でも、演芸が与えてくれる喜びは変わらないはず。そう信じて、今までどおり、演芸の世界と関わっていきたいと思う。
来年も、駄文日記をよろしくお願いいたします。よい年になりますように。
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