落語日記 芝居噺を柔らかな落語家目線で描写してくれた馬生師匠
金原亭馬生独演会(第2回)
11月28日 江戸東京博物館小ホール
師匠である金原亭馬生師匠の独演会を弟子の馬治師匠がプロデュースする会の第2回。一門の皆さんの出演機会を増やそうという趣旨で企画した会なので、この日も馬治師匠は受付やら案内やらの裏方仕事に徹していて、出演無し。
馬生師匠は「淀五郎」をネタ出しされていて、馬生師匠お目当てのご贔屓さんで盛況となった。前回に引き続き、私も裏方のお手伝いをさせてもらった。
金原亭駒介「たらちめ」
まずは、七番弟子で末弟の前座駒介さん。前座仕事も板についてきた。寄席での修行の成果だろう。
金原亭馬太郎「湯屋番」
今回は六番弟子の馬太郎さんの出番。端正な語り口は、馬生師匠にますます似てきた。マクラは定番のあっさりしたもので、馬生一門の皆さんの芸風。
本編では、男前の馬太郎さんならではの、呑気で女好きな放蕩者の気質がぴったりはまった若旦那。好青年風な馬太郎さんだが、妄想を爆発させて、やに下がっている若旦那も似合っている。一見は好青年に見える若旦那、その本性を見せているようで、そのギャップが楽しい。
金原亭馬久「雪とん」
前回に引き続き登場したのは、四番弟子の馬久さん。こちらも馬生一門らしく、マクラもそこそこに本編へ。
本編は珍しい演目。私は入船亭扇辰師匠でしか聴いたことがない。珍品に挑戦する馬久さんは、なかなかにチャレンジャーだ。終演後にお尋ねしたところ、やはり扇辰師匠から教わったとのこと。
噺の筋書。地方から出てきた若旦那が恋煩いで、宿泊先の船宿で寝込んでしまった。その女将が相手を聞き出し、その娘の家に夜中に訪ねる算段をする。しかし、その晩は大雪。雪をトントンと落とす音が木戸を叩く合図と間違われ、たまたま通りがかりの色男が娘の家に入ってしまい、若旦那は思いを遂げられなかったというもの。この噺でも、恋煩いで寝込んでしまうという典型の若旦那。馬太郎さんの一席から若旦那の噺が続いたが、こちらは、気弱で人の好い若旦那の噺。
大雪の降る景色が描かれ、この降り積もる雪が噺のカギとなる。また、この雪景色の描写が聴かせどころにもなっている。馬久さんの心地良い低音の美声と丁寧な語り口によって、高座にしんしんと雪を降らせてくれた。
ネットで調べると、志ん生師も掛けていたようなので、まんざら金原亭にも縁がない噺ではない。一門の他の皆さんにも、ぜひ挑戦して欲しい噺だ。
仲入り
金原亭馬生「淀五郎」
仲入り後の一席は一時間近い長講、ご贔屓さんを前にたっぷり語ってくれた。
この日は弟子たちと違って、マクラたっぷりの師匠。最近、落語家や芸人の訃報が続いていたこともあるせいなのか、また、師匠ご自身が、齢を重ねてきたことへの感慨を持たれる年齢となってきたからか。マクラではまず、落語家の年齢と芸についてのお話から始まる。
芸の上達曲線と体力の下降曲線があるとすると、現在自分はちょうどこの二つの線が交差しているところに居る。なかなかに味わい深い、芸人ならではの感情だ。そんな話から、先輩たちの思い出話へ。小さん、圓生など名人達の思い出から始まり、先日亡くなった小三治師匠の思い出へ。何気ない話の流れだが、後の思い出話がより感慨深くなる。この日の馬生師匠のマクラはかなりの聴きものだった。
小三治師匠には、随分と稽古を付けてもらった。そんな稽古風景や、なかなか上げの稽古をしてもらえなかったというエピソードが可笑しい。小三治師匠からは好きに演っていいよと許しは出ているのに、聴いてもらってから上げて欲しいという馬生師匠。この若かりし頃の馬生師匠の生真面目さと小三治師匠のフランクさの対比が面白い。芸の鬼のような印象がある小三治師匠、しかし飄々とした小三治師匠の別の顔を見せてくれた。
共通の趣味であるスキー旅行に行った話など、その思い出は馬生師匠にとって宝物なんだろうなあと感じさせてくれた。小三治師匠への良い追悼となった。
そんな落語家の世界から、歌舞伎の世界の話へ。いよいよ本編への導入のマクラが始まった。噺にまつわる歴史や由来などの蘊蓄話をいつも丁寧に聞かせてくれる馬生師匠。今回の演目は、芝居を題材とする噺、ここでは芝居噺と呼ぶことにする。芝居好きな馬生師匠は、芝居噺に入る前の解説に、より一層の熱が入る。
歌舞伎と言えば、人気の外題は仮名手本忠臣蔵。中でも四段目は塩谷判官切腹の段で、人気もある有名な段。そんな解説から、歌舞伎役者の仕草や作法について詳しく解説。この辺りも馬生師匠の聴きどころ。
さて、芝居噺は役者の舞台上の演技ぶりをどのように表現しているかが見どころだと思っている。本物の役者ではないし、座ったままの姿勢で舞台上の動きを表現しなければならない。また、一人で何役もこなさねばならない。高座に座ったままで、芝居の舞台全部を表現するのだ。なので、芝居噺は、かなり高度な技量が要求されるのだ。
そんな見方で馬生師匠の高座を拝見すると、落語家が芝居や役者を演じているようではなく、落語家らしい客観的な視点で表現されているように感じた。無声映画の弁士のように、舞台の外から客観的に舞台の上を語って見せてくれる。馬生師匠の淀五郎からは、そんな印象を受けた。セリフも感情に走らず、淡々と丁寧に。
あくまでも、第三者の語り手として伝えてくれる。それでいて、観客の頭には、歌舞伎の舞台が浮かび上がってくる。これこそが、聴き手の想像力を刺激する落語という芸の力。そんな落語の真髄を見せてくれた馬生師匠の一席だった。
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