落語日記 中断していた地域落語会の再始動は、文菊師匠から
第50回ととや落語会 古今亭文菊の会
6月19日 下板橋駅前集会所
落語好きな板橋の寿司店「ととや」の親方が主催している落語会。毎回、楽しみに通っている。前回は、今年1月に開催された入船亭扇辰師匠出演の会。私の日記では、前回を第50回として書いていたが、親方から、前回はテスト公演で今回が正式な第50回ですと聞いたので、前回の日記を修正した。
2年4ヶ月ぶりに再開した前回のテスト公演は、弁当も飲食も無しで、人数を制限して行った。ちらし寿司の弁当を出して、ビールも飲めて、懇親後に落語を楽しむという、本来の姿で開催出来て初めて、親方としては再開したと言えると考えておられたのだろう。今回を正式な第50回としたことから、以前のスタイルに戻してこそ、第50回の記念の回と呼べるのだという、親方の強い思いが感じられるのだ。前回のテスト公演の成功が後押しとなって、親方も今回の開催を決断されたに違いない。
会場では、久々に、ととや特製ちらし寿司を食べながら、ビール片手に楽しそうに語り合っている観客の輪が、そこここに見られた。常連さんたちも待ちかねた再開なのだ。
この落語会自体はコロナ禍で二年半も休止せざるを得なかったが、親方が経営する寿司店も時短営業や酒類の提供禁止など、苦労の連続だったはず。そんな苦労を乗り越えての落語会再開だけに、観客以上に親方が一番嬉しかったはずだ。
それでも、客席の間隔を空けて、人数制限という制約下にある。当日も、親方はこまめな窓開けなど換気に気を使っていた。
振り返れば、私がこの落語会に通い始めたのは、2010年ころ。なので、10年以上通っていることになる。私がライブでの落語の魅力に気付かされたのも、一之輔師匠、文菊師匠、百栄師匠、扇辰師匠など魅力的な落語家と出会えたのも、みな、このととや落語会があったからだ。私にとっても感慨深い第50回でもある。
日記を読み返すと、親方がこの落語会を始めたのは、おそらく2007年ころらしい。ということは、この落語会は15年もの歴史を重ねてきたのだ。第50回というのは、そんな時間の重みも背負って達成されたものであり、この節目における親方の感慨深さは並々ならぬものがあるに違いない。
この第50回の記念の回を飾るのは、この会で二ツ目時代からのレギュラー、古今亭文菊師匠。この日は、文菊師匠の熱演と、親方の熱い思いと、そして再開を喜ぶ大勢の常連さんの思いが重なって、大いに盛り上がった会となった。
毎回楽しみな親方の前座芸、今回は何度も披露してきた十八番とも言っていい「どじょう掬い」。かなり熟練されてきて、観客をイジルのも余裕がある。途中で取り出した巻紙に「おかげさまで50回 心より感謝いたします」の文字で、客席も盛り上がる。
古今亭文菊「ちりとてちん」
中腰でそろそろと歩く、寄席の高座に上がるのと同様のお馴染みのスタイルで登場。ととや落語会では4年ぶりの登場となった。コロナ禍が無ければ、こんなに間隔は空かなかったはず。
開口一番もコロナ禍の話題。この間も色々と変化もあった。この会のような小さな地域落語会は、ほとんどが中止となり、再開されずにいる。ご自身のことでは、息子さんが産まれたそうだ。今年2歳になる。ちょうどコロナ禍が始まったころの誕生なので、当時は色々と大変だったそうだ。
文菊師匠がお父さんになったのか、と我々も感慨深い。コロナ禍で落語と接する機会が奪われていた時間にあっても、観客も演者もそれぞれの人生の時間が流れていたことをしみじみ感じる瞬間だ。
「気取ったお坊さん」という寄席などで聞くお馴染みのマクラ。気取って見えるけど、品というのは産まれ持ったものだから・・・。この最近聞く定番の挨拶は、客席との垣根を取り払うためのものですと、ネタばらしのような説明があった。寄席での定番挨拶の解説が聞けて、ちょっと新鮮な驚き。そんなマクラの解説のようなマクラから本編へ。
この噺は世辞上手な愛想のよい男と、ぶっきら棒で不愛想な世辞の言えない男との対比で笑わせる噺。両極端な二人の性格をどう具体的に描写してくれるのかが見どころとなっている。文菊師匠の描き方は、塩梅がちょうど良い加減で、実際にこんな人いるかもと思える程度。それでいて、二人とも可笑しいという、匙加減が絶妙なのだ。
食事を振る舞う亭主に貫禄があるのは、文菊師匠が年齢を重ねてきた証し。若者だと思っていた文菊師匠も中年の域に入ってきた。自分も歳を取ってきたのだ、当然だ。
世辞の言えない男の知ったかぶり感が強いので、仕方なく「ちりちてちん」を食べざるを得なくなったクライマックスの場面では、やられて可哀そう感は少ない。むしろ、懲らしめのための亭主の策略が成功して、してやったりの痛快さを感じて、客席も納得。
季節に合った滑稽噺で、前半から盛り上げた文菊師匠。
抽選会
第50回を記念しての抽選会。文菊師匠の色紙や手拭いが賞品。ところが、文菊師匠が賞品の手拭いを忘れるというハプニング。後で必ずととやさんにお送りしておきます、と文菊師匠も恐縮しきり。
仲入り
古今亭文菊「幾代餅」
この日の出囃子は、CDを流すもの。いつもの三味線のお姐さんは受付に戻ったが、名物の出囃子の演奏は無し。名物の出囃子が聞けないのは淋しいとの文菊師匠に、客席も同感。
三道楽から吉原をめぐるマクラへ。ということは、廓噺だと思っていると始まった本編。古今亭一門では、よく聴く演目。
主人公の清蔵は、錦絵を見て恋患いをするという、かなりエキセントリックな男。しかし、文菊師匠の描く清蔵は、まともというか、現実に居そうなリアルな若者として登場する。普通の若者なのだが、どこか世間知らずで真面目過ぎる性格。これが後々、花魁のハートを射止めることに繋がるのだ。
奉公先の搗き米屋の親方は、人情の機微に通じ分別があり、まさに江戸っ子という感じ。文菊師匠は、この酸いも甘いも噛み分けている男を見事に演じる。清蔵の気持ちに理解を示し、力を貸すところは清々しい。
幾代太夫の出番は少ないが、色気があってリアルな表情を見せる。これは文菊師匠の端正な風貌と柔らかな語り口によるところが大きい。ほんと、女性を表現させたら若手ではピカイチだと思う。その少ない出番ながら、存在感抜群の幾代太夫。まさに絶世の美女が清蔵の前に居たのだ。
文菊師匠の幾代餅は、人情噺ということもあるが、リアルなドラマ性の強い一席だと感じた。ととや落語会の再開と、第50回の節目を祝うに相応しい目出度い一席でお開きとなった。