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落語日記 個性豊かな小遊三一門の兄弟弟子が集まった落語会

雀が二羽と馬一頭 No.3
5月17日 深川江戸資料館小劇場
小遊三一門である圓雀師匠と遊雀師匠と遊馬師匠の自主公演による兄弟三人会。昨年4月に第1回を開催して、年2回のペースで開催し、今回が第3回。私は第1回以来の1年ぶりの参加。
今回のゲストは、一門の惣領弟子である圓丸師匠。兄弟弟子だけで四人揃った落語会もなかなかに珍しい。

三遊亭遊かり「よめとてちん」
開口一番は、小遊三師匠の孫弟子に当たる遊かりさんと遊七さんが交互に務めるようで、今回は遊かりさんの番。
やや緊張の面持ちで登場した遊かりさん。マクラもこの会の楽屋の雰囲気から。一門といっても、なかなか会う機会がない。なので、この日は一門の先輩方とは久しぶりにお会いしたようで、年配の先輩方が集まっていると楽屋はお盆か法事の親戚の集まりのよう、そんな上手い例え。遊かりさんは前座の次に下っ端の身分、かなり気を使う緊張の楽屋のようだ。
最近の若手落語家の中には、女性が増えている。とは言っても、楽屋で女性はまだまだ貴重な存在。遊かりさんがマクラでよく語る入門時のエピソード。その際に師匠から言いつけられた教え「清く正しく美しく」をしっかり守って前座修行。迫りくる男性陣からの魔の手を払いのけ、師匠の教えを忠実に守った。それは、今でも引き続き守っている。誰かイイ人いませんか?自らをネタに笑いをとる。
女性落語家同士の仲の悪さを疑われるが、実際はそんなことはない。仲の良くない女性同士の関係と言えば嫁と姑。自分には分からないのですが、との上手い流れで本編へ突入。
古典の演目「ちりとてちん」を遊かりさんが嫁と姑バージョンにした改作。私も何度か聴いている遊かりさん得意の演目。この季節にも合っている。長男と次男のそれぞれの嫁のキャラが、ちりとてちんの登場人物の性格を上手く移植したもの。華やかで楽しい一席で盛り上げる。

三遊亭圓雀「猿後家」
冒頭に開始から3分間は各高座の撮影はOK、のアナウンス。これで、会場はいっせいに撮影会。
マクラはご自身の体形の話から。こう見えても、ダイエットに成功している。高座で膝立ちになり、まるまるとした出っ腹を出したり引っ込めたり。見事な腹芸に会場は大喜び。
相撲好きなので、相撲取りと一緒に食事に出掛けたりする機会が多い。必ず、親方と間違われるそうだ。確かに、風貌や雰囲気は相撲取りだ。少年時代のあだ名の話で、中学高校時代はモンチッチ。そんな話から、風貌がテーマの噺へ。
人の容姿や見た目で判断したり差別したりする外見至上主義のことはルッキズムと呼ばれていて、現代社会ではその風潮が厳しく戒められている。この演目は、まさに女性の外見を題材とした噺。一見、ルッキズムのようにも思える噺だが、私は実はそうではないと考えている。
この噺の主役は、自他ともに顔が猿に似ていると認めている後家の女将。この噺で描かれているのは、女将の強烈な劣等感とそれに振り回される周囲の人々が巻き起こす大騒動だ。もはや、被害妄想と呼ぶべき女将のサルという言葉に対する拒絶反応。これがエキセントリックで馬鹿々々しさが極端だから笑えるのであって、けっして、女将の周囲の人たちが、猿に似た容姿を蔑視したり差別したりはしていない。
猿を連想させる言葉が、あまりにもかけ離れすぎていて、その連想の繋がりが爆笑を呼ぶ。了解の意味の「アイアイサー」にも反応する女将。もはや、日常の会話が成り立たない。おまけに、あからさまな世辞にも素直に喜んでしまう。この女将のエキセントリックさに周囲が気を使い振り回されるという馬鹿々々しさ、それがこの演目の肝なのだ。
圓雀師匠は、この肝のところを強調して聴かせてくれるので、差別的な気分を味わうこともなく笑えるのだ。ただし、差別的表現に厳しい目が注がれている昨今、放送などマスメディアには乗りにくい、色々と気を使う噺のひとつではあるだろう。しかし、現代の価値観や倫理観で古典落語を縛らないというのは落語ファンとしては当然のこと。改めて考えさせられる噺ではあった。

三遊亭圓丸「鹿政談」
今回の助演は、小遊三一門の惣領弟子。敬意を表して、仲入り前の出番。
芸協の寄席に行く機会が少ないので、こんなベテラン師匠なのに初めて拝見する。落ち着いた雰囲気は重鎮感にあふれ、観ていて安心感を与えてくれる高座だ。ゆったりしたマクラも心地良い。小遊三一門の面白さは、弟子の個性豊かさと皆さんから小遊三色をあまり感じさせないところだと思う。圓丸師匠の芸風も、どちらかと言うと重厚感ある感じで、軽妙な小遊三師匠とも異なっている。
全国に有数の観光地があるが、今日は奈良県の噺をしますと宣言して本編へ。後日、ネットで拝見すると、圓丸師匠は、奈良県大和郡山市出身。なるほど、故郷が舞台の演目なので、ご自身も好きな噺なのだろう。
奈良と言えば鹿が名物、神鹿(しんろく)と呼ばれていると、どこか誇らしげに奈良の鹿を巡る歴史を伝える。このマクラからも奈良の人々が鹿を大切にしている雰囲気が伝わってくるのは、圓丸師匠の地元愛のなせる技だ。
本編は、登場人物全体が人の好さを感じる一席で、悪役の塚原出雲までも、まったくの小役人で悪党ではない。演者によっては時代劇風に悪役として憎々しく演じてみせる型もあるが、奉行の𠮟責にあっさり折れるところが落語らしくて良いと思った。私腹を肥やしている小役人ですらどこか憎めない様子が、裁きの場面の緊張感を和らげている。これが圓丸師匠の芸風なのだろう。

仲入り

三遊亭遊雀「天狗裁き」
マクラなしで本編へ。兄弟子の助演の高座と弟弟子の主任の高座の間を取り持つポジションを心得た遊雀師匠らしい軽い一席。場を荒らさないという思いが伝わるが、いつも同様に笑い声が多く聞こえた高座。仲入りで落ち着いた客席を一気に暖めた。
この高座でも。遊雀マニアポイントをいくつか見つけることができ、マニアとしても満足の高座だった。まずマニアポイントとして見せてくれたのは「目は口程に物を言う」。これは顔芸とも違い、セリフ以上に表情で感情を伝えてくれるということ。この日も、目付きを駆使した表情で笑わせてくれた。
そして、マニアポイントとして毎回楽しみなのが私が勝手に「ぶっ込み」と呼んでいるもので、前方の出演者の高座からセリフや設定を自分の噺の中に取り込んでネタにするという荒技で、なかなかに高等テクニックなのだ。さて、この日はこの「ぶっ込み」は出るのか、と期待していると、さすが、ここぞという場面でぶっ込んでくれました。それは、お白州の場面で登場、お奉行様がいきなり鹿殺しを裁こうとしたのだ。これには客席も大喜び。これがやりたかったからこの演目を選んだ、遊雀師匠からこぼれた演者の声、これは案外と本音なのかも。

三遊亭遊馬「宿屋の仇討」
この日の主任は、遊馬師匠。主任の番は、毎回交替しているようだ。そして、主任のみがネタ出し。遊馬師匠でこの演目は初めて聴く。
マクラは、地方公演はほとんど日帰りという話から、前乗りするのが楽しみという話。これが、酔っ払って宿を締め出されたというかなり強烈なエピソード。旅の恥は搔き捨てという気分、ただでさえ気が緩みはしゃいでしまう旅の道中、酒が入るともっと気が大きくなり、しくじることになる。まさに、本編の江戸っ子三人組を地で行くような話、本編と上手く重なるマクラだった。
配布されたプログラムには、遊馬師匠のこの日の高座に関する思いが書かれていた。目指すところは、師匠の小遊三師匠のように明るく軽く、長い噺はなるべく短く口演すること。そして、この日の一席は、まさに師匠のような高座にするという意図に適った高座だったと思う。

見どころの江戸っ子三人組の大騒ぎ場面は、短く凝縮されたように感じた。馬鹿騒ぎが一気に盛り上がり、そこから万事世話九郎がイハチを呼ぶ隣の部屋へ瞬時に場面転換する。そこからイハチが伝える万事世話九郎の苦情で、馬鹿騒ぎが一気に終息。この場面転換の見事さと、三人組の気分が上がったり下がったりするメリハリが良いリズムを生む。芸者を揚げてのどんちゃん騒ぎの場面では三味線が入り、これもなかなかに効果的。
噺全体を通して、侍、宿の奉公人、江戸っ子の旅人と、その身分と立場と性格を見事に演じ別けていた。これが効果的な落差を生んで、可笑しさを増幅させている。
源ちゃんの色事師の物語、これを聴いている二人からテキトーに聴いている様子が感じられて、馬鹿騒ぎへの移行が自然である。
後半は下げに向かって一気呵成。縛られた後の三人組の様子は簡単な描写のみだったが、その置かれた状況の過酷さに、下げを知っている観客でも三人組が感じる恐怖が伝わってきて、たんなる滑稽噺ではない、かなり辛いスパイスを効かせた高座となった。
まさに、明るく軽く短くという三拍子が揃いながら、後半の恐怖が伝わるという重みが感じられる遊馬師匠の一席だった。


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