落語日記 さん喬・喬太郎師弟が二枚看板として競演した落語会
第662回 落語研究会
8月21日 国立劇場小劇場(三宅坂)
最近通っている、TBSが主催している老舗のホール落語会。前回は欠席したので、2ヶ月ぶりの参加。今回は、出演者が人気者揃いのため、定員の五百席が全部埋まる大人気。座席は指定席で、抽選で場所が指定される。今回は、前から4列目中央付近という幸運に恵まれた。この会は、毎回出演者全員がネタ出し。これで楽しみも増えるのだ。
桂二葉「天狗刺し」
上方落語界の若手人気者が、落語研究会初登場。会場には二葉さんお目当てが多そうだ。登場するなり、いきなりハイトーンで明るさ爆発の高座。会場が一気に華やかになる。
マクラは、いわゆる上方落語界でいう年季中と呼ばれる修行期間のお話。この期間は、師匠の身の回りのお世話をする。車の運転免許を取りたてですぐ師匠の車の運転手を務めていた。なので、コインパーキングの仕組みを知らず、料金を支払わずに無理に出庫しようとして師匠の車を傷つけるという、破門寸前の大シクジリ。あっけらかんとした表情でシクジリを語るところが、度胸のよさを感じさせる。
本編は、NHK新人落語大賞受賞の演目。この会でも掛けるということは、十八番の演目なのだろう。知恵者の常識人のところに商売で儲ける方法を相談に来た常識外れの男。解決策につき教えを乞うが、肝心の相談がどうやっても解決できない問題。この二人の奇妙な会話が笑いどころ。天狗のすき焼屋をやろうという発想がぶっ飛んでいる。
この相談に来た男がボケ役なのだが、どこか抜けている足りない与太郎キャラではなく、思い込みの激しい男。江戸落語で言うところの粗忽者、ここは上方落語なので、突き抜けたアホな男。このアホな男を、ハイトーンの二葉さんが演じるので可笑しさ倍増。瞬発力抜群の高座だった。
プログラムには前座さんやお囃子さんの名前も記載されている。そこに書かれていた笛担当が春風亭一花さん。ネットで拝見すると、二葉さんとは仲良しのようで、きっと簾内で応援されていたのだろう。
柳家三三「転宅」
典型的な定番のマクラ、縁起をかつぐ話から泥棒の噺を掛ける訳の話。ここから、飄々と流れるような軽い語り口で終始した本編へ。
お菊さんの貫禄と色気が自然で、心地良く噺が進む。細かいクスグリやノリ突っ込みを挟みながら、外連味の無い本寸法の一席。
お菊さんの前では間抜けだった泥棒が、翌日、煙草屋のオヤジから泥棒騒動の話を聞かされると、その反応で多少の口答え。強気な一面も見せる泥棒。この辺りの反応が、この噺では新鮮。
人気者が並ぶ顔付け、この位置にいる三三師匠が、抑えて流れるような軽い高座を見せてくれたので、他の演者さんたちの高座がより引き立つことになったと思う。コース料理でいうと、華やかな二葉さんがオードブルなら、二番手の三三師匠は食欲を刺激して後に続く料理の消化を促すスープの役割を担っていた。寄席のシステムを理解し、この日の役割を充分に心得た三三師匠ならではの高座だった。
柳家さん喬「応挙の幽霊」
と言うことで、私的にはお待ちかねの一皿目のメインディッシュの登場。俯いて高座に上がる表情がいつもながらで、拝見するだけで嬉しくなる。
マクラは噺に因んで、芸術に関する話。芸術を鑑賞する側の感性は、様々であると感じているとのこと。ここで登場した例えが、スープ缶並べただけとか、マリリンモンローの顔をぐちゃぐちゃにしただけ、これが芸術なのかと疑問を呈する。作者の名前は出さなかったが、まさにアンディ・ウォーホルのポップアートを例に挙げられた。我々の世代には通じる例えだが、さん喬師匠の口から語られると、可笑しさが増す。
本編は、掛け軸の絵の中の幽霊と道具屋の会話のみで進行する滑稽噺。幽霊画を前に道具屋が一人酒盛りで手酌酒。酔いに任せて、一人で唄う。ここは鳴り物が入る聴かせどころ。さん喬師匠の唄声が見事。その後、急に道具屋が寒気がすると言った途端、突然の大太鼓。これにはビックリ。
ここで、幽霊画の中から幽霊が登場。この女性の幽霊がとにかくお茶目で可愛い。年配のさん喬師匠が演じる幽霊、演者の姿が消えた瞬間。幽霊がお酌をする手つき、盃を持つ仕草が可笑しい。道具屋と差しつ差されつして、幽霊はじょじょに酔っ払っていく。しゃっくりを連発して、最後は寝てしまう幽霊。この幽霊の酔いが進むことによる表情の変化は見事。そして可笑しい。
この噺はそんなに笑える噺と思っていなかったので、その印象を覆された爆笑の一席。収録されているので、いずれ放送されるはず。もう一度観たい一席なので、放送されることを楽しみに待ちたい。
仲入り
三遊亭笑遊「祇園祭」
寄席以外で拝見するのは初めての笑遊師匠。寄席で拝見したときは、客席を眺めながら話しかけるように雑談のようなマクラから入っていかれるのだが、この日は違った。どこか真面目で硬い表情。
まずは、奥様と行った奈良旅行の話。放し飼いの鹿を大切にしている、放し鹿(はなしか)は大切です、そんな嬉しい言葉を聞いた。駄洒落が笑遊師匠らしい。
この会はネタ出ししている。笑遊師匠が「祇園祭」とは意外な印象だが、当日配布されたプログラムによると、この噺は春風亭一朝師匠から習ったそうだ。一朝師匠の高座を観て感心し、一朝師匠のような高座を目指し稽古をお願いされたそうだ。
噺は、江戸っ子三人衆の旅の風景から始まる冒頭を省略しない型。この旅の風景は、江戸っ子たちが江戸自慢の啖呵を地元の人達にぶつけるのだが、これが間抜けていて迫力がない。この江戸っ子の自慢の底が浅いことが、のちに登場する京都人との会話の場面で効いてくる。
この噺の聴かせどころの祭り囃子が、さすが一朝師匠ゆずりで、丁寧にきっちり。中手が起きてもおかしくなかった。後半の京都人と対峙する江戸っ子の啖呵も切れっ切れ。笑遊師匠には失礼ながら、一朝師匠ゆずりの、お年に似合わない生きの良さを感じさせた。
この京都人がふざけていて、かっ、かっ、かっという笑い声がいかにも江戸っ子を馬鹿にしていて、笑遊師匠らしいところ。
真面目に本寸法な一席に取り組む笑遊師匠は、初めて拝見。噺本来の持つ可笑しさをきっちりと伝えてくれた。大好きな一朝師匠の高座を目指したことが、よく分かる高座だった。
普段の寄席における笑遊師匠の高座と、この一席の印象では、少なからずギャップがあった。これがコース料理に味の変化をもたらし、全体から見ても良い流れをつくった思う。
柳家喬太郎「拾い犬」
さて、本日二皿目のメインディッシュの登場。大舞台大観衆での主任を務められる数少ない落語家の一人。相変わらず、釈台を前に足を崩して座る喬太郎師匠。師匠が正座で弟子があぐら、そんな自虐ネタでツカミはオッケー。
マクラは、もうすぐ建替えとなる国立劇場や国立演芸場の思い出話。出演者やスタッフしか利用できない社員食堂はよく利用し思い出が多い。建替え後もぜひ残して欲しい。国立劇場ならではの、こんな社員食堂にして欲しい、と演じて見せてくれた風景が爆笑。
ここから本編へつながるマクラ。楽しみは色々あるが、ペットを飼うことも大きな楽しみ。小学生の頃、祖父母の家に遊びに行ったとき、飼い犬がいたという思い出。これも楽しいばかりじゃない話で、ビックリと爆笑。
本編は、喬太郎師匠作の新作。捨て犬を拾った少年善吉と六助の二人が、可哀想なので長屋で飼おうと大家に頼んだが、貧乏長屋に余裕はないと、知り合いの呉服屋に預けられることになった。その捨て犬シロが忘れられず、店を覗いていた善吉が、店に奉公することになる。その店には善吉と年の近いお嬢様がいて、シロがお嬢様の遊び相手となっていく。
時は進んで10年後、大旦那と立派な奉公人になった善吉の会話する場面から物語が動き出す。お嬢様の縁談を巡る大旦那、善吉そしてお嬢様の真の気持ち。観客にはお互いを思いやる気持ちが伝わってくる場面。
そこから、悪人になった六助がお嬢様に目を付けての悪巧みが引き起こす大騒動。シロの大活躍で騒動も収まり、善吉とお嬢様もお互いの気持ちを知ることになる。そんな筋書き。
中盤での見せ場は、成長した善吉と大旦那の会話の場面。ここでの大旦那は、善吉を前に照れた様子で、本音を上手く伝えられない。本音は見え隠れしているのに、ストレートに言えない様子なのだ。そんな二人の感情表現が抜群に上手い。あざといくらいなのに、観客は引き込まれてしまうのだ。
終盤の見せ場は、シロが登場して、悪人となった六助の袖に喰らいつき、悪巧みを止めさせようとするところ。その喋らない犬を、表情だけで感情を伝えてくれた。落語には珍しい言葉をしゃべらない動物。犬らしい表現で、言葉を発せず表情のみで犬の感情を表現するところは見事。このときのシロは六助を懲らしめるというより、悪事を引き留めようとしている。小さい頃を知っているシロは、六助に対しても愛情を持っていることを感じさせる。
大人になった善吉とお嬢様そして年老いたシロとの交流の場面によって、演じられていない大人になるまでの三人の時間が、お互いに友情を育ててきたことを痛感させる見事な構成。
喬太郎師匠が年齢を重ねてきて、この噺自体も熟成させてきたに違いない。そう感じさせる喬太郎師匠の新作は、ジワリと胸が熱くなる一席だった。
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