落語日記 雲助師匠が後輩たちに噺に関するうん畜を伝える落語会
第2回 雲古塾 雲助の古典を識る塾
10月14日 日本橋社会教育会館ホール
この日は昼の「こみちのすべて」の後に、同じ会場で開催された雲古塾にも居残りで参加。落語会の梯子は久しぶり。
この会は、サブタイトルを「雲助の古典を識る塾」と題して、毎回決められたテーマに沿った演目で五街道雲助師匠から習った噺を若手落語家が披露し、塾長である雲助師匠が講評と演目にまつわる蘊蓄を語ってくれるという企画の会。「雲助の古典を識る塾」を略して「雲古塾(うんこじゅく)」と命名されている。
昨年の5月2日に第1回が開催され、初回手習いのテーマが「芝居がかり・鳴り物入り」で、桃月庵こはくさんが「電話の遊び」、三遊亭青森さんが「もう半分」に挑戦された。
私は今回が初参加。今回のテーマは、手習い其之二「ピカレスク(悪人)物」となっていて、このテーマに因んだ噺が取り上げられる。今回の若手挑戦者は、金原亭馬久さんと古今亭佑輔さんのお二人。なかなか難易度の高そうな演目をネタ出しで挑戦。昼のこみち師匠の会と異なり、客席には落語マニアの皆さんが駆け付けているようで、丹精会の常連さんなど見知ったお顔をちらほらと拝見。
隅田川わたし「強情灸」
前座は雲助師匠の孫弟子にあたるわたしさん。先日の丹精会でもお世話になった。
主催者からピカレスク物を持っていますかと訊かれ、前座が持っている訳が無い。せっかくだから、大師匠から習った噺をします、と話してこの噺を始める。大師匠の前だからか、丹精会で聴いたときよりも遠慮がなく大層張り切っているように感じる。そして、意外と思えるくらい、上手くなっている。それにしても、口調や声が馬石師匠そっくり。
古今亭佑輔「鰍沢」
芸名が金原亭乃ゝ香から古今亭佑輔に変わってから聴くのは初めて。
出演する会の名前を伝えるのに、何度も「うんこ塾」と言わねばならず、かなり抵抗があったというマクラ。これは会の名前を考えた雲助師匠が悪戯好きなことが判るエピソードで、女性に「うんこ」と言わせるために名付けた策略にちがいないと私は思っている。こんなお茶目さも魅力である人間国宝なのだ。
この噺の性格からの印象かもしれないが、全体にきっちりと演目に忠実で、丁寧な語り口。笑いどころがほぼ無い噺なので、雪の山中の一軒家での物語が淡々と進む。ほぼセリフだけで、この噺の舞台である厳冬期の山中における積雪の厳しさや寒さを観客に感じさせる必要がある。佑輔さんの場合、セリフがきっちりしている分、役者の舞台を観ているように感じられ、大自然の厳しい自然の中で物語が繰り広げられているという風景が頭に浮かびづらかった。
しかし、後半から下げにかけて、鳴り物入りでセリフが芝居がかりとなり、まさにお役者が舞台で見せるカッコ良さを感じさせるものとなった。後の雲助師匠のうん蘊でも話題となったが、「御材木で助かった」という地口オチは、下げとするには噺の内容と釣り合わない。そこで、芝居掛かりの下げを工夫したとのこと。佑輔さんはそんな雲助師匠の意図を上手く再現している。
金原亭馬久「やんま久次」
若手二席目は、来年9月に真打昇進し、6代目金原亭馬好を襲名予定の馬久さん。二ツ目として充分に研鑽を積み、勢いづいている時期にいる。馬久さんは何度か掛けてきた演目に挑戦。後の「うん蓄」コーナーで馬久さん自身が語っていたが、雲助師匠の独演会に前座として起用されていたとき、雲助師匠のこの噺を直接聞いたのが切っ掛けで教えを乞うたそうだ。
噺は旗本の次男坊の青木久之進が主人公。家督を継げず他家に養子に出されるでもなく道楽を覚え、やけになって博打場に出入りするようになり身を持ち崩す。その背中にトンボの刺青を彫っているので、「やんまの久次」と呼ばれている。金に困って、実家の旗本屋敷に金の無心に行き、兄や剣術の先生に強く諫められ、改心したかに見せて、実は悪党の性根は変わっていなかったという下げで終わる筋書。
この一席も、下げにかけて鳴り物が入り、セリフが芝居掛かりになる。この演出は佑輔さんの高座と同じ。
この下げでは、やんまの久次が実は悪党だという本心を観客にとうとうと語る。ここは、まるで歌舞伎の白浪五人男の名乗り口上のようだ。昨年の若手だけの鹿芝居公演「令和鹿芝居」の演目が白浪五人男で、その中で馬久さんは南郷力丸役を務め、名乗り口上の場面も見事にこなしていた。そんな経験も活かされているはず。
悪党が心情を七五調の耳触りの良いセリフで、流暢にカッコ良く観客に聴かせる場面は歌舞伎の楽しいところだが、この落語でもまさにこの歌舞伎と同じ楽しさを感じたのだ。この演出も雲助師匠の流儀。その真意も後半のうん蓄で語られる。
仲入り
五街道雲助 緑林門松竹(みどりのはやしかどのまつたけ)より「おすわ殺し」
後半は、塾長が同じテーマの悪人物の演目で、お手本の一席の披露から始まる。この雲助師匠の一席は前二席の若手の下げと異なり、芝居掛かりなど全くない、ストレートな演出。そして主人公も救いのないような真に凶悪な悪党だ。カッコ良さや痛快さなど全くなく、残忍な犯行の場面における残酷な描写は、観客も聴いていてつらくなるほど。
この噺は圓朝作の緑林門松竹の中の一編と言われている。後のうん蓄で語られるが、前の二つの演目との違いが作者の違いによる差であるという話があり、なるほどと納得するうん蓄が聞けたのだ。
噺の「うん蓄」五街道雲助・金原亭馬久・古今亭佑輔
舞台に三人が登場、椅子に座って鼎談形式の講座が始まる。雲助師匠は二人の落語を講評するというよりも、この日の高座に掛けられた三つの演目に関する、まさにうん蓄と呼ぶべき話をしてくれた。
この日の若手二人の二席の下げは、鳴り物入りでセリフが芝居調という芝居掛かりの演出。そして塾長の雲助師匠の一席はこの演出が無い。ここが、この日の雲助師匠の講義の肝なのだ。
歌舞伎の白浪物などで悪役が人気を呼ぶのは、表現のカッコ良さがあるから。江戸時代の噺で登場する悪役が人気なのは、価値観からくる理由だけではなく、その人物描写や表現が粋だからなのだ。そんな趣旨の雲助師匠の解説があった。つまり、歌舞伎でも落語でも、悪役は一種のヒーローとして捉えられているのだろう。
「鰍沢」は、風景描写や人物描写がどこか歌舞伎の白浪物のカッコ良さに通じている。この噺は圓朝の原作ではなく、歌舞伎戯作者の河竹黙阿弥が原作という説がある。雲助師匠は歌舞伎に通じる噺の雰囲気から判断すると、この黙阿弥作者説に賛同しているとのこと。
二席目の「やんま久次」も圓朝作の「緑林門松竹」の内の一編とされているが、圓朝全集には載っていない。雲助師匠の話だと、初代志ん生が「大べらぼう」として演じて評判の良かった噺を圓朝が「緑林門松竹」に取り入れて演っていたようで、圓朝はこの「大べらぼう」を「またかのお関」と云う女悪党に置き換えて口演していたらしい。この噺が本来の圓朝作の演目の作風とは異なっていることから、初代志ん生原作説も信憑性があると雲助師匠は感じている。
これら二席の噺に対して、三席目の「おすわ殺し」の中では、主人公の悪党の新助が残虐性あふれる性格で、人殺しの場面も残酷な描写はかなりえぐい。悪党のカッコ良さや痛快さなど欠片もない。圓朝は人間の残虐性をドロドロとしたリアルな表現で描き、これは落語の世界では野暮と言える表現。
そのおどろおどろしい人間の悪の心理描写が圓朝の聴かせどころではあるので、怪談噺や因果応報の物語で本領を発揮している。しかし、圓朝作品は表現がみな野暮なのだ。こんな風に、圓朝を野暮と喝破する雲助師匠は凄い。
ただし、前半の二演目の下げに関しては、雲助師匠は不満を持っていた。「鰍沢」は、これだけサスペンスフルなドラマなのに「お材木(お題目)で助かった」という地口落ちは、下げとしてはいかがなものか。この下げは野暮なので、雲助師匠は芝居掛かりの下げにする工夫で、粋を目指した。同じく「やんま久次」も噺の本来の下げは「大べらぼうめっ」と見栄を切って終わるところを、やはり芝居掛かりの下げを工夫したとのこと。
これら芝居掛かりの下げを、佑輔さんと馬久さんは見事に再現。雲助師匠はこれには満足のようだった。
この鰍沢は、女性落語家に多く教えた。女性落語家に人気の演目らしい。たしかに、セリフや風景描写も芝居の台本風。カッコ良く聴かせやすい噺なのだろう。
また、悪人ものを高座に掛けるときの注意事項として、終始悪人を演じるので気を抜いてはいけない、気を抜いて素に戻ると悪人でなくなる。これは演者に対するアドバイスなのだが、観客としてはなるほどという話。
政界人財界人とも交流のあった圓朝で、そんな人たちとの付き合いが深くなればなるほど、噺のおどろおどろしさが薄れていった、これも雲助師匠の感想。なるほど、前日の「せいえん寄席」で聞いた渋沢栄一との交流の話と繋がる。この直前の会で、こみち師匠も圓朝作の死神を掛けていたし、考えると、この連休は偶然にも圓朝で始まり圓朝で終わったのだ。
観客も塾生なので、質問を受け付けます、と客席からの質問にも答えていた。また、孫弟子の桃月庵こはくさんと隅田川わたしさんも少しだけ参加。舞台と客席ともに巻き込んだ講義、充実の雲古塾だった。