大竹伸朗展
東京国立近代美術館の「大竹伸朗展」にいきました。
重さの理由
重いですね。
重さを感じた理由ははっきりしていて、時間の堆積によるものです。
執拗なまでにスクラップすることで時間が閉じ込められ、その時間のボリュームは圧倒的です。
確かに、人の「記憶」とは、このような体系をなしていると感じさせます。
記憶には、ムダとも思える記憶の欠片や、周辺の時間が層をなしていて、
人は都合の良いものだけつまみ出して、自分の物語を捏造したりします。
しかし、その綺麗な物語だけが生きた証になるとは限りません。物語が壊れかけた時、取りこぼした時間に突然、価値が生まれることも多いと思います。
少なくとも大竹さんは、生きるために時間をスクラップし続けていくのだろうと思わされます。
記憶と記録
大竹さんの作品には、デジタル世界と相容れないものを感じます。しかし、それは一義的で表層の見方かもしれません。
デジタル空間は、データとして「記録」し、それを「参照」することで成立しています。
一方、物理空間では、人の「記憶」が唯一の頼りです。
大竹さんの作品は、「記憶」が取りこぼした時間を丹念に収集するだけでなく、それらを「スクラップブック化」することで参照しやすくしている(実際にあのスクラップブックを参照することは不可能なように感じるが)とすると、それはデジタル空間の情報のあり方と同形です。
相容れないものがあるとすれば、スクラップ対象がフィジカルなモノという点だけになります。
エイジング
ところで、大竹さんの作品に使われている素材は、古びていて使い込まれた、あるいは、朽ちかけたものが好まれて使われています。
この「エイジング」というか、「時間の経過」を切り取っている点は多分、作品の最大の魅力といってよいと思います。
このエイジングこそは、デジタル世界と絶対に相容れないものです。デジタルデータは消滅することはあっても、劣化しません。
現実空間の反撃
ここに、デジタル空間と物理空間との境界があると思います。
現在、すべての出来事が、物理空間からデジタル空間へ急速にシフトしています。その中で、物理空間に残される価値の一つが「エイジング」や「劣化」であり、時間の経過を体験することであると考えることができます。
これがどのような意味を持つのか改めて問いませんが、雑駁にいえば生きることの裏返しです。
空間レシピでは、新しい企画として「現実空間の反撃」を検討しています。
アフターデジタルのなかで活動空間が二つになり、デジタル空間が主戦場になりつつあります。
そのなかで、現実空間に残る価値、新しい現実空間の役割について考えていくために、フィジカルに魅力を発するモノや作品を紹介していこうと思います。
その中で、大竹さんの作品群は、これ以上ない素材です。改めて、しっかりと作品をご紹介します。
個人的には密かに、大竹さんのような大人になりたい、と思っています。