【現代空間論9】ウェブ空間は同位空間である
これまで写真機、録音機、コピー機をはじめ様々な複製技術が出現してきました。ウェブ空間(インターネット)も、デジタル技術を使った複製技術に違いありませんが、これまでの延長線上にある「複製技術」というより、複製容易化(コピーフリー)が大前提となった「複製環境」というべきものです。
オリジナルはコピーの一つ
ベンヤミン(Walter Benjamin)が『複製技術の時代における芸術作品』で指摘したように、複製技術は「アウラ(aura)」を喪失させます。
アウラ(aura)は、”オーラ”とも呼ばれ、物体が放出する雰囲気や霊気を表します。ベンヤミンによれば「どんなに近くにあっても遠い遙けさを思わせる一回限りの現象」で、「一回性(いま・ここ性)」や、本物(オリジナル)としての歴史的な「真正性」、そして近づくのが憚られる「神秘性」を備えるものといいます。
初期の複製技術である写真が普及していく過程では、アウラの喪失が問題視されました。複製技術による生産物(コピー)は、オリジナル作品を真似るだけで、そこに元々宿っていたアウラを蘇らせることはできない。アウラに宿る「礼拝的価値」が、複製技術の「展示的価値」によって駆逐される、と危惧されたのです。
その後、複製技術が発達していくと、次第にコピーとオリジナルとの区別が軽視されるようになり、アウラへの関心やこだわりが失われていきます。
コピーとオリジナルとを差別化することの意味が薄れ、オリジナルという概念自体が変化し、もはやオリジナルはコピーの一つでしかなくなります。
いま・ここ性の喪失の喪失
そして、インターネット(ウェブ空間)が登場します。ウェブ空間はすべてデジタルデータで作られており、これが複製容易化(コピーフリー)という状況を生みだし、社会的制約さえがなければオリジナルの完全コピーが無制限、無償で可能です。
これまで写真機、録音機、コピー機をはじめ様々な複製技術が出現してきましたが、ウェブ空間はそれらの延長線上にある「複製技術」というより、複製容易化が大前提となった「複製環境」というべきです
そして、複製が全面化した“複製環境”としてウェブ空間が登場するに至って、アウラの不在が徹底されます。我々がウェブ上でコミュニケーションをとる時、相手は目の前におらず、「いま・ここ性」の不在は大前提です。
この事態は「『アウラの喪失』そのものの喪失」と形容されました。喪失が喪失されるということは、アウラという概念、つまり「いま・ここ性」という概念がこの世から抹消されることを意味します。
しかし、本当にそうでしょうか。
実際は、ウェブ空間でアウラは「疑似アウラ」として保存されています。目の前に相手が不在でも、そこにいるかのように会話します。むしろ相手がいるより密度の濃いコミュニケーションがとれる場合もあります。
「映画の中にあって記述され得ないもの」というロラン・バルトの「第三の意味」は、映画に限らずウェブ空間にも広く確認することができます。
これは、デジタル化によってこれまで隠されていたものがすべて表面化することで、新たな価値(at interface value、など)が生まれたと説明されますが、ここでは深入りしません。
一方、ウェブ空間を支える技術が「疑似アウラ」を生み出している点に注目してみたいと思います。
複製技術が「いま性」、通信技術が「ここ性」を生む
ところで、ウェブ空間では「いま・ここ性」が不在、という言い方は不正確です。というのも「いま性」と「ここ性」は明らかに異質だからです。
複製技術は、対象をいつでも時間的な遅れを伴って再生させます。複製技術は、異なる時期の作動を空間的につなぎあわせ、"時間の距たり"を消滅させることで、擬似的な「いま性」を作り出しています。これが「同位」です。
一方、空間の“距たり”を消滅させるのは複製技術でなく、通信技術であり、ネットワークによるリアルタイム接続です。通信技術が、異なる空間の作動を瞬間的につなぎあわせ、"空間の距たり"を消滅させることで、擬似的な「ここ性」を作り出しています。これが「同期」です。
「いま・ここ性」のないウェブ空間で「疑似アウラ」が生まれるのは、デジタルデータ(複製技術)がもたらす擬似的な「いま性」と、ネットワーク(通信技術)のリアルタイム接続がもたらす擬似的な「ここ性」の複合作用によるものです。
さらにいうと、ウェブ空間の本質的な性格は、「同位」がもたらす擬似的な「いま性」にあります。ウェブ空間では、過去の相手の発言や表現と接する「同位」状態なかで常に擬似的な「いま性」が確保されており、コミュニケーションの幅を大きく広げました。
一方、ウェブ空間で電話やウェブ会議システムのように「同期」がとられ、擬似的な「ここ性」が確保されることは稀です。
このようにウェブ空間は、参加者間の「同期」以上に「同位」を促す働きが強いのです。
なお、同位(coordination)という言葉は、同期(synchronism)に比べて馴染みが少ないのですが、同一の地位、同じ位置を意味する概念です。また、同位観念というと、同一の類概念に包括されている種概念同士を意味します。ここでは、時間の距たりを消滅させることで同じ位置、同じ座を占めるという意味で用いています。
同期のメカニズム「視座合わせ」
ウェブ空間に見られる「同位」のメカニズムは、送り手と受け手との時間差(時間的な距たり)と、空間的な距たりを同時に消滅させるものです。SNSもメールもすべてこの同位のメカニズムを使った同位アプリです。
この同位アプリ(メディア)の歴史は古く、刻記から始まり、本、映画、テレビ、SNS‥と連なっています。この中で映画がアウラ喪失という課題と向き合ってアウラの再生に取り組み、そしてSNS(ウェブ空間)がアウラ喪失を前提に、送り手と受け手との新しい関係を生み出しました。
この同位アプリの特徴は、送り手と受け手の「視座合わせ」です。
「同期」は、遠方の相手と向き合い「視線合わせ」するために、相手の視線と正対し、ときに交差して深く相手の視線に差し込まれてしまいます。
同期の場面では、即時即答が求められる緊張した時間の流れに身を任せることになり、これがコミュニケーション上のリスクになることがあります。
それに対して「同位」は、送り手と受け手が時間差をもって同じSNSやメールの画面の前に座ります。相手と「視座合わせ」によって同じ座を占めるので、相手の視線に平行して同じ向きに自分の視線を並べられます。
同じ場所(座)を用意して、そこから同じ対象を時間差で見聞きさせるのが「同位」の極意であり、より複雑なコミュニケーションを作り、送り手と受け手との新しい関係を生み出しました。
(丸田一如)
〈参考〉
w.ベンヤミン『複製技術の時代における芸術作品』晶文社クラシックス
北田暁大『<意味>への抗い-メディエーションの文化政治学』せりか書房
ロラン・バルト(沢崎浩平訳)『第三の意味―映像と音楽と』みすず書房
丸田一『「場所」論』NTT出版