わすれたもの

[ショートショート]


 いつもと変わらない、けれど好きな音楽を聴きながら、いつもと同じ道を無心に歩く。そうすればいつものように気がついた頃にはマンションの前。それがいつも通りの生活。越してからほぼ毎日変わらず同じ日々。とはいえ、越してきて半年から一年しか経ってはいないはず。けれどどのくらい経つのか、はっきりとは覚えていない。ただ、もっとずっと前からここにいる気もしているのは何故だろう。
 ごくごく普通のありきたりな街で、絵に描いたようなありきたりな日常を送っているからなのか。それともただ単に記憶力が乏しいのか。おそらく後者なのだが。はっきり言って近頃では物の名前すらも出てこないことが多くなった。まだアラサーとも言えないほどに若いはずなのに。いや、そのつもりなのに。

 だが、今日は少し違ったようだ。
 視界の端に黒っぽい、茶色に近いような“何か”が見えた。
 視線だけを向けると、“何か”はこちらと平行して動いていた。今度は頭ごと、足は止めずにそれに向く。茶トラ模様の猫だった。比較的小顔の可愛らしい猫が、車道を挟んだ反対側の歩道をとてとてと歩いていた。
 余所見していてはケガをしかねないのですぐにまた前を向く。視界の端にはそれを捉えたまま、意識はまた別のことへ向ける。あの猫はどこかで見た覚えがあるのだ。記憶が正しければ。ただ、それがどこだかは思い出せない。
 こういう時に自分の記憶力が疎ましい。いくらこの辺りにノラ猫が多いからといって、あんな愛らしいものを忘れるなんて。
 ふと大きな白い物体が視界に入る。おそらくは歩道に乗り上げた車だろう。荷物の積み下ろしもあるのだろうけれど、そうでないものも含めて駐車違反が多い。お陰で歩道から降りて車道を歩くこともたびたびある。一度それで後ろから来た自転車にベルを鳴らされ、そのうえ乗っていたおばちゃんに睨まれたことがある。あれは何とも解せない。睨むべきは駐車違反車及びその所持者ではないのか。と。

 白い物体を通り過ぎ、しばらくしてから気がつく。
 後ろを振り返ると、やはり白い物体は駐車違反車だった。だが、問題はそこではない。あの猫はどこにいったのだろう。跡形もなく消えてしまった。ように見える。
 とはいえ、ノラ猫なのだから好きな様にふらっとどこへでも行ってしまうのが常だ。そこにいないからといって特に探すわけでもなく、また前を向いて歩き出す。

 そういえば。あの猫に見覚えがあるわけだ。あれはよくマンションの前にいたお気に入りの猫だった。いつかぶさいくな白猫に追いかけ回されて向かいの駐車場を酷い声で鳴きながら走っていた。あれ以来どこかへ行ってしまった、あの美人さんだ。
 あんなに気に入っていたものを忘れるなんて、記憶力が乏しいにも程がある。だが、どうだろう。人なんてものは所詮記憶の薄れていく生き物なのだ。今までだって、どんなに多くのことを忘れただろう。その中には忘れてはいけないものもあったのではないだろうか。ただ、あの猫もその忘れていったものたちの一つだっただけなのだ。なんて言い訳をしてみたところで、ため息が出るだけで。

 ところで、忘れてはいけない忘れたものとはなんだろう。とか考えた所で思い出すことはないだろうし、思い出した所でそれは思い出でしかなくて、ただ物思いに耽って終わる。ただそれだけで。
 気がつけばマンションの前にいた。いつも通りにオートロックの鍵を開け、新聞が溜まっているであろうポストを開くことなく部屋の前に向かう。会社に忘れた傘を思い出しながら部屋の鍵を開ければ、また色々なことを忘れて“いつも”に戻るだけ。
「ただいま」
 返事が帰ってこないことは覚えているのだけれど、なかなかに独り言はやめられない。
 なんだか廊下が暖かいなぁなんて思いながらリビングのドアを開ける。なるほど、これは暖かい。
 なんということだろう、今朝エアコンの電源を切るのを忘れていた。

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マガジン『世界の欠片』

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